目黒不動尊・龍泉寺

目黒不動尊龍泉寺は都内にある五色不動の一つ、三大不動の一つで、正式名称は泰叡山護國院瀧泉寺。
大同3年(808)、15歳の慈覚大師円仁が比叡山に向かう途中、この地で恐ろしい形相をした神が現れる夢を見て、その姿を彫刻した像を安置したのが始まりとされています。
龍泉寺という寺名は、慈覚大師が法具の独鈷を投げると泉(独鈷の滝)が湧き出したことにちなんで名付けられました。
泰叡山の山号は、貞観2年(860)に清和天皇から「泰叡」の勅額を賜ったのが由縁です。

慈覚大師円仁は後に唐に留学し「入唐求法巡礼行記」という大冒険の旅行記を記しています。また、東北の瑞巌寺や中尊寺などを建立、第三代天台座主を務めました。

境内は広く、本殿は立派です。この本堂は昭和56年(1981)に再建されたものでした。

天安2年(858)  慈覚大師によって堂宇が造営される
弘治3年(1557)  堂塔の修理造営
元和元年(1615) 火災により焼失
寛永年間(1624〜1644)  第三代将軍・徳川家光の保護を受け、堂塔が再建される。

徳川家光公の保護を受けるきっかけに次のエピソードがあります。

家光公が目黒で鷹狩りをしたとき、愛鷹が行方しれずになった。家光公は目黒不動尊御宝前に額づき、祈願すると、たちまち鷹が本堂前の松樹(鷹居の松)に飛び帰ってきた。
この霊験を目の当りにした家光公は瀧泉寺をあつく信仰することになり、大伽藍を造立した。

鷹が帰ってきたのが、余程うれしかったのでしょうね。

鳥居と大本堂

境内にはいろいろな文化財が残っています。

独鈷の滝

慈覚大師が法具の独鈷を投げると泉がわきだしたという独鈷の滝。
今まで、水が涸れたことがないそうです。
独鈷の滝は不動行者の水垢離場となり、幕末には西郷隆盛が薩摩藩主・島津斉彬公の病気平癒を祈願しました。

独鈷の滝と水かけ不動明王様

甘藷先生・青木昆陽の碑

青木昆陽の墓が龍泉寺にあり、境内には甘藷先生・青木昆陽の碑が建てられています。
さつまいもの栽培に成功し、「甘藷之記」をかきあげた昆陽。
「享保二十年 甘藷を植う 甘藷流傳(るでん)して天下をして飢うる人 無からしむる是れ余が願なり」という言葉を残しています。

甘藷先生・青木昆陽の碑

北一輝顕彰碑

北一輝は大正・昭和初期の国家主義者。
大正時代には中国の辛亥革命を支援。のち国家主義者に転じ、陸軍青年将校から信奉されます。二・二六事件(1936)の首謀者として銃殺刑。
墓も龍泉寺にあります。

北一輝顕彰碑

本居長世(もとおりながよ)の碑

戦前の童謡作曲者。
「十五夜お月さん」「青い目の人形」なとがず多くの童謡を作りました。

本居長世の碑

勢至堂と前不動堂

勢至堂と前不動堂は江戸時代の建造物です。
将軍や大名の参拝があると、庶民は本堂へは近づけませんでした。そうした場合でも、参拝に来る庶民のために前不動堂が建立されたといわれています。

勢至堂
前不動堂

大日如来像

本堂の裏手に大きな大日如来坐像がおられました。高さは約4m。
天和3年(1683)に造られたものです。

大日如来像

白井権八・小紫の比翼塚

白井(平井)権八は数え18歳のとき、郷里鳥取で父の同僚を斬殺し、江戸へ逃走。吉原の遊女小紫と恋仲になる。
そして、金欲しさのため辻斬りを始め、130人もの人を殺した重罪人。後に自首するが、鈴ヶ森で処刑された(延宝7年/1679年)。
これを知った小紫は権八の墓前で後追い自殺した。
悲しい恋だったかもしれませんが、あまりにたくさんの人を殺しています。
死刑になって当然でしょう。

白井権八・小紫の比翼塚

目黒不動尊・龍泉寺は数々のエピソードがある寺でした。

※ 五色不動
目黒不動尊(龍泉寺)、目白不動尊(金乗院)、目赤不動尊(南谷寺)、目黄不動尊(最勝寺、永久寺)、目青不動尊(最勝寺)

※日本三大不動
目黒不動尊、木原不動尊(熊本)、成田不動尊(千葉)