姉川古戦場と小谷城

姉川の古戦場、小谷城を巡りました。

元亀元年(1570)、現在の滋賀県長浜市を流れる姉川で織田・徳川連合軍vs浅井・朝倉連合軍の合戦が行われた。
戦いが始まった当初は浅井軍が織田軍を押しまくり、織田軍の13段の備えのうち11段まで打ち破り、信長の本陣まで迫る。
この危機的状況のなかで、徳川家康が榊原康政に命じて、大きく迂回させて朝倉郡の右側面から攻撃させる。
これにより朝倉郡が敗走。浅井軍も崩れる。
戦いの結果は織田・徳川連合軍の勝利で終わった。

負けた浅井長政は小谷城に籠城。
小谷城をすぐに落とすのは無理と考えた信長は、浅井方の支城・横山城を落とし攻撃拠点とする。

信長による攻撃が4年続き、浅井は勢力が衰える。
天正元年(1573)8月、信長は3万の軍を率いて出陣。小谷城救援のため朝倉軍が到着するも織田軍の急襲によって壊滅。朝倉義景は自刃、朝倉家は滅亡する。
8月27日、織田軍による小谷城総攻撃が開始される。
お市の方を3人の娘とともに織田軍に引き渡した後、浅井長政は9月1日に自害。
3代続いた浅井家は滅亡した。

姉川古戦場

姉川を中心に古戦場跡の看板が所々に建てられています。

織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍の布陣図です。
織田軍2万3千に対し浅井軍8千、徳川軍6千に対し朝倉軍1万がそれぞれ戦っています。
人数が少ない不利な戦いの中で、榊原康政に迂回させて側面攻撃をさせたというのは家康の優れた指揮だったと思います。

織田信長本陣跡

ここの柳には、織田信長が陣太鼓をかけて指揮をしたという伝承が残されています。
ただし、現在の柳はその頃から数えて4代目の柳です。
13段の備えが11段まで破られたとき、さすがの信長も焦ったのではないかと想います。

織田信長本陣跡

信長本陣から約300m後方に浅井方武将・遠藤直経の墓があります。
浅井軍が敗色濃厚になったとき、武将首を一つ抱えて信長本陣に紛れ込み、信長を狙いました。
この企ては見破られ失敗に終わり、直経は討ち取られました。
しかし、本陣後方300mの地点で直経が討ち取られたことから、織田軍が浅井軍に押されていたという事実を裏付けるといえるそうです。

遠藤直経の墓

徳川家康本陣跡

徳川家康の本陣は岡山という名でしたが、姉川の戦いに勝ったことから勝山に改称されました。

徳川家康本陣

織田軍vs浅井軍激戦地

現在の姉川です。戦いの当時はどれぐらいの川幅があったのでしょうか。

姉川

姉川に架かる野村橋の付近は織田軍vs浅井軍の激戦地だった場所とされています。
この戦いでは両軍合わせて2500人が戦死し、川が血で染まったといわれています。

徳川軍vs朝倉軍激戦地

織田軍と浅井軍が戦った地点から少し南方で徳川vs朝倉の激戦が行われました。
この戦いでは朝倉方の真柄十郎左衛門直隆が刃渡り5尺3寸(160㎝)の大太刀をふるって奮戦しました。恐ろしい怪力です。

古戦場跡碑の隣の公園は血原公園といいます。このあたりも血で染まり、血原という名がついたのでしょう。

小谷城

姉川古戦場をあとにして、約7km北方の小谷城を訪問しました。

小谷城は標高495mの小谷山に建てられた城です。かなりの規模を持った難攻不落の城でした。
ふもとに小谷城戦国歴史資料館があります。
小谷城のことが要領よくわかる展示がされていました。

砦のような門
小谷城戦国歴史資料館

小谷城は日本山城100名城トップ3にランクインしていて、人気がある山城です。
・魅力を体感できる山城 第1位
・小説の舞台にしたい山城 第1位
・時代を変えた山城 第2位
・撮影したくなる山城 第3位

暑い日でしたが、せっかくなので登ってみました。

番所跡までは林道が通っているので、自動車でも行けます。
番所跡から琵琶湖の方を見ると竹生島まで見えました。

遠くに竹生島が見える

ここからは山道を登ります。
本丸跡までに御茶屋跡、御馬屋跡、馬洗池跡、桜馬場跡、大広間といった遺構と浅井氏および家臣の供養塔がありました。

本丸跡
浅井氏及家臣供養塔

小谷城は小谷山の尾根伝いに拠点が設けられた山城で、スケールが大きい城です。
今回は、番所跡から400mの本丸跡までしか行きませんでしたが、番所跡から最遠部の大嶽までは1.7kmあるので、山登りの準備をしておいた方がよさそうです。熊の目撃情報もありました。

山のふもとには小谷寺があります。
創建は神亀5年(728)と伝わる寺で、浅井家三代の祈願寺です。
小谷寺のホームページには、お市の方も3人の子供の手を引いて参拝されたと書かれていました。

小谷寺

政略結婚とはいえ、浅井長政と結ばれてお市の方は幸せだったようです。
その夫と兄が殺し合いをするのを見るのはつらかったと思います。

お市の方と3人の子供

お市の方と茶々、初、江の3人の子供は、
・お市の方が柴田勝家と再婚するが、秀吉に攻められ北ノ庄での自害。
・茶々が秀吉の子供・秀頼を生み、大阪城落城で自害する。
・お江の方が徳川秀忠と結婚し、3代将軍家光を産む。
で有名ですが、浅井長政との間のことはあまり取り上げられていない感じがします。

今回、長浜地方を巡って、唯一、JR河毛駅前に二人の像がありました。

そばにあった看板に、浅井長政と和りんごということで、木之本にある寺院から長政に和りんごが贈られ、それに対する礼状を長政が書いたこと、その和りんごを平成19年(2007)に復活することができたことが記されていました。

和りんご

信長との戦争が始まる前には二人で一緒にりんごを食べたりしたことを願いたいです。

浅井長政とお市の方