薩摩宝暦治水

木曽川、長良川、揖斐川の木曽三川は濃尾平野を流れ、伊勢湾にそそぎこまれます。
江戸時代にはそれぞれの川の支流が383もあり、それが入り乱れていました。
ここを渡るのは難しかったため、江戸時代の東海道は濃尾平野を迂回して名古屋・熱田から桑名へと船で渡っていました(七里の渡し)。
そして、この入り乱れた支流により水害が多かったようです。
この三川の治水は大きな課題でした。

今回、江戸時代の宝暦4年から5年(1754~1755)にかけて、薩摩藩によって行われた治水工事(宝暦治水)の史跡を訪ねました。

薩摩堰治水神社
薩摩堰遺跡の碑

岐阜県輪之内町に大藪洗堰跡があります。
薩摩の武士たちが治水工事をした跡で、宝暦治水のことを説明した看板がありました。

  • この地方は木曽、長良、揖斐の三大河川が網の目のような支流によって連なり、その間に出来た区画を輪中といい、堤防を築いて水の侵入を防いでいた。
  • しかし、木曽、長良、揖斐の順に川床の高さが2.4mもあるため、大雨が降ると一番低い揖斐川へ水が流れこみ、輪中の堤防が決壊。洪水となり農作物や人命が失われた。
  • この窮状を徳川幕府に訴えたところ、幕府はこの大治水事業を薩摩藩に命じた。
  • 薩摩藩主・島津重年公は家老・平田靱負を総奉行に約1千名の藩士を派遣。88名の犠牲者を出しながら難事業を完遂した。
  • 大藪洗堰はその事業の一つで、高さ1.2m、幅40m、長さ180mの洗堰形式の石造りの堤防であった。
  • 薩摩義士の功績を讃え、当地が五穀豊饒の地として今日あるを感謝し、その偉勲を永く後世に伝える。

幕府から治水工事を命じられた薩摩藩では、藩の財政がひっ迫していることもあって、薩摩と全く関係のない美濃地方に対する工事を命じられたことに対して反対意見が強く、一戦交えてでも抗議を行うことまで話し合われたようです。

宝暦4年から始まった工事は困難を極め、疫病の流行などにより88名の犠牲者が出ます。そのうちの55名は幕府による迫害や工事の邪魔に対する抗議の自決といいます。
しかし、自決したと言うと幕府に反抗したとみなされるため、死因は「腰のものにて怪我の上病死」と届けられました。

宝暦5年(1755)3月、堤の総延長120kmという大工事が終了。工期はわずか1年半でした。
重機のない時代。多数の犠牲者を出しながら、人力だけでこれだけの工事をやり遂げたのはすごいと思います。

幕府の現地検分が5月22日に終わり、工事の総奉行・平田靱負は最後の報告書を書き上げます。
5月25日早朝、薩摩工事役館にて辞世の句「住みなれし 里も今更 名残りにて 立ちぞわづらふ 美濃の大牧」を残し、平田靱負は自決しました。
多数の犠牲者を出したこと、40万両の大金を使ったことの責任を取ったとされています。

薩摩工事役館の跡

岐阜県海津市に平田靱負と薩摩藩士84名をおまつりする治水神社があります。
建立は昭和13年(1938)です。
宝暦治水が知られるようになったのは、明治に入り西田喜兵衛氏らによる宝暦治水の顕彰運動が行われたためのようです。鹿児島でも薩摩義士、平田靱負の顕彰が行われています。

海津市の治水神社

毎年春(4月25日)と秋(10月25日)に慰霊祭が行われています。

工事の犠牲者全員を祀る宝暦治水観音堂
治水神社境内と宝暦治水観音堂を結ぶ隼人橋

境内社には伊勢湾台風の犠牲者を慰霊する治水昭和之宮があります。
昭和34年(1959)に起こった伊勢湾台風は5000人を超える死者・行方不明者がでるという大災害でした。

治水昭和之宮

現在、地球温暖化に伴う異常気象で毎年のように川の氾濫、洪水が発生しています。
災害による犠牲を出さないようにするために、治水の技術、インフラの整備は現代人にとっても大きな課題ですね。