腰越状の寺・満福寺

鎌倉市腰越にある満福寺は源義経が腰越状を書いた寺と伝えられています。

腰越状
文治元年(1185)5月15日、義経は壇ノ浦で生け捕りにした平家の大将・平宗盛親子を連れて鎌倉に下ってきた。義経がやってきたことを知らされた源頼朝は、北条時政に宗盛親子の身柄を受けたらせたが、義経の鎌倉入りは許さなかった。
いつまで待っても鎌倉入りが許されない義経は腰越に逗留する。
讒言によって、頼朝に自分(義経)のことが悪く伝えられていると考えた義経が、5月24日に腰越から幕府の重臣大江広元にあてて、頼朝の誤解を解いてもらうために書いた書状。

満福寺は江ノ電・腰越駅から徒歩5分のところにありました。

腰越駅に近い満福寺

天平16年(744)行基によって開山したという古い寺です。

本堂

境内には弁慶がいて、むつかしい顔をして腰越状を書いていました。その横にいるのは義経でしょう。大きな太刀を持って、じっと弁慶を見つめています。

腰越状を書く弁慶とそれを見守る義経

弁慶は墨をすると草案も作らず、一筆で腰越状を書き上げたといいます。
弁慶らしいエピソードです。

その腰越状には次のことが書かれているそうです。

  • 平家を討滅し、亡き父(源義朝)の憤りを鎮めたこと。
  • 検非違使尉に任じられ五位に叙されたのは源氏にとって名誉なこと。
  • 謀反の心は全くないこと。
  • 大江広元から頼朝に取りなしてほしい。
腰越状

結局、腰越状を書いたにもかかわらず、頼朝から許しは出ませんでした。
6月9日、鎌倉入りがかなえられないまま平宗盛を連れて京に戻るよう命じられます。

こういう事件があっていよいよ義経vs頼朝の戦いとなっていきます。

歴史のターニングポイントともなった満福寺には腰越状の下書きとされる書状が残されています。

弁慶の手玉石
弁慶の腰掛石

境内には弁慶の手玉石、弁慶の腰掛石がありました。
義経の腰掛石ではなく弁慶の腰掛石というところが面白いと思います。やっぱり弁慶は人気がありますね。