上野公園を歩いてみました。
西郷隆盛像から寛永寺根本中堂まで。約3km。
たくさんの見所がありました。
スタートは不忍口の階段です。
この階段を見ると、上野はちゃんとした丘ですね。上野の山の頂上は摺鉢山で標高24mだそうです。
西郷隆盛像
造られたのは明治31年(1898)。
除幕式のとき、西郷隆盛夫人が「うちの人はこげんひとではなかった」と言ったという話があります。
これは顔が似ていないということではなく、ちょっとみっともない格好だから、そう言ったらしいです。
除幕式には勝海舟も来ていますが、彼も含めて、誰も似ていないとは言っていないようです。
西郷隆盛の写真は残っていなかったため、西郷隆盛の弟・西郷従道やいとこの大山巌をもとにしたということですが、西郷隆盛を知っている人たちから顔が似てないという指摘はないようなので、この像の顔は本人に似ているのかもしれません。
彰義隊の墓
彰義隊は上野戦争に備えて結成された隊ではありませんでした。
慶応4年(1868)2月に結成されたときは一橋家の有志の集まりで、わずか17人しかいなかったそうです。初代隊長は渋沢栄一のいとこ・渋沢成一郎でした。その後、寛永寺に謹慎していた徳川慶喜守護を名目にして本拠を上野に移し、隊員も増えます。
そうこうするうちに江戸城が無血開城(4月22日)し、慶喜は水戸に向かいます(慶喜は水戸藩出身だった)。このとき、渋沢成一郎らは脱退してしまいます。
慶喜がいなくなり、隊長が天野八郎に代わり強硬派が主導権を握りました。
5月15日、上野に立てこもる彰義隊に対して新政府軍から宣戦布告が発せられ、上野を舞台に戦争が起こりました。
戦闘はその日のうちに終結。新政府軍の圧勝に終わりました。
彰義隊戦死者碑は明治15年(1882)に建てられました。彰義隊は賊軍と取り扱われ、公式に慰霊することができませんでした。この碑にも「彰義隊」の文字はなく、「戦死之墓」とあります。
彰義隊戦死者碑は3代目の墓となります。そして、台座の上にある小さい墓が初代の墓で明治2年(1869)に建てられたものです。
清水観音堂
寛永8年(1631)、慈眼大師天海大僧正によって建立された清水観音堂は上野の山にある最古の建造物です。
天海僧正は江戸城の鬼門の守りを考え、上野の山に比叡山や京都の寺をなぞらえたものを作ろうとしました。
この清水観音堂は京都の清水寺を見立てたものです。
ご本尊の千手観世音菩薩は京都・清水寺からご遷座されました。
「月の松」という丸く円の形をした松があります。明治初年の台風被害から150年目(平成24年)にして、ようやく復元されました。
本物の生きた松の木が円形になるとは不思議です。
不忍池弁天堂
不忍池弁天堂も慈眼大師天海大僧正によって建立されたものです。不忍池は琵琶湖、弁天堂は竹生島の宝厳寺に見立てられています。
昔は橋が無く、弁天堂へは船で渡っていたそうです。
外国からの観光客もたくさん来ておられました。寺の前の常香炉で線香の煙を浴びていました。
また、宇賀神様という顔は人間で体は蛇の像がありました。
弁天堂のご本尊は弁財天。音楽と芸能、金運上昇の神様ということで、弁天堂はかなり強力なパワースポットでもありました。
1年に1回行われる「巳成金大祭」の日に秘仏がご開帳され小判のお守りと福財布が頒布されます。”巳” なので蛇に関係があるのでしょう。
建物の形が八角形をしているのがユニークです。不忍池のどこからでも美しい建物が見えるようにとのことで、この形になっているそうです。
弁天堂のお隣に大黒天堂があります。
豊臣秀吉公が大切に護持したと伝わる大黒天がお祀りされていると説明板にありました。
江戸城に近いこういう場所で豊臣秀吉に関係するものがあるのは不思議に思います。