義経の首・藤沢

鎌倉に送られた源義経の首を洗ったという井戸が神奈川県藤沢市に残されています。

元暦2年/寿永4年(1185)の壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼしてから4年。
源頼朝から追われる身となり奥州に逃げ込んだ義経。当初は奥州藤原当主氏の藤原秀衡の保護を受けます。しかし秀衡の死後、その後を継いだ藤原泰衡との戦いに破れ自害します(衣川の戦い、文治5年/1189年)。
義経の首は美酒を満たした黒漆の櫃に入れられ鎌倉まで運ばれました。
6月13日、首実検が腰越の浜で行われます。
立ち会ったのは和田義盛と梶原景時。首が入った櫃を見て涙を流したと伝えられています。
首実検の後、義経の首は潮にのって川をさかのぼり、藤沢のまちに流れ着いたとされています。

義経の首洗い井戸

首洗い井戸

小田急藤沢本町駅の近くに「義経の首洗い井戸」があります。
「藤沢に流れ着いた首を里人が拾い上げると「我は源義経なり」と叫びました。里人は首を井戸で洗い清め、丁重に埋葬した」という伝説があります。
いくら酒に浸していたとはいえ、首はかなり痛んでいたと思います。拾い上げた首がいきなり叫んだとしたら。
恐ろしい。
びっくりして手を放し、首を落としてしまったと思います。

腰越からここまで約5. 5キロメートル。現在、近くには境川が流れていますが、この距離をさかのぼってくるなんて。奇跡です。

井戸
義経公首塚

白幡神社

白旗神社

白旗神社は相模一の宮の寒川比古命を勧請して創建され、寒川神社と呼ばれていました。
宝治3年(1249)に義経公を合祀したといいます。
義経公の死後、約60年後のことです。
北条泰時の時代です。源頼朝の敵だった義経公もその頃には許されていたのかもしれません。

白旗神社社殿

社殿への石段の脇に源義経公鎮霊碑という石碑があります。
兜の鍬形の形をしています。
平成11年(1999)、義経公の胴体が祀られている御葬礼所(宮城県栗原市)で義経公の首と胴体を一緒にしてあげる祭祀が行われました。白旗神所からは兜に入れられた義経の御霊が送られました。
源義経公鎮霊碑はそれを記念して建てられました。

源義経公鎮霊碑

荘厳寺

首洗い井戸の近くに荘厳寺という寺があります。元暦元年(1184)開山された真言宗の寺で、白旗神社の別当職を務めていました。
もとは白旗神社の隣にありましたが、明治の神仏分離令により現在地に移転しています。
そして、このお寺には義経公の位牌が安置されています。
予約しておけば見せていただけるようです。

荘厳寺

弁慶塚

義経公の首実検の際には弁慶の首も奥州から届けられており、首実検のあと一夜にして飛んできたそうです。弁慶の首は定光寺に八王子社として祀られました。
神社は通常南か東向きに建てられますが、八王子社・弁慶塚は主君義経公が祀られている白旗神社の方へ、北向きに建てられたそうです。

弁慶塚

平家を滅ぼしたあと、義経公は頼朝公に会おうとしましたが腰越で留め置かれ、鎌倉に入ることができませんでした。首実検も腰越で行われ、鎌倉に入ることができませんでした。頼朝公も会ってくれませんでした。哀れです。
しかし、弁慶はいつも忠実な味方でした。死んで首になったあとも二人は固い絆で結ばれていました。
いつも味方になってくれる弁慶がいてくれて、義経公はうれしかったのではないかと思います。

白旗神社の義経公と弁慶の像