大坂夏の陣・天王寺口の戦い 真田幸村の最期

慶長20年(1615)5月7日大坂夏の陣最後の戦いが天王寺で繰り広げられました。

茶臼山を本陣とした真田幸村他、豊臣方は55,000。対する徳川方は155,000。
徳川家康をあと一歩のところまで追い詰めるも、力尽きた豊臣勢は壊滅。真田幸村も討ち取られます。
翌5月8日に大坂城は落城。豊臣秀頼、淀君が自害し、豊臣家は滅びました。

茶臼山

茶臼山の標高は26m。大阪五低山の一つで、大坂城から700メートルのところにあります。もともとは前方後円墳だったという説と、和気清麻呂が運河を掘削しようとしたときに掘り出した土が積み上がってできたという説があります。

※大阪五低山( )は標高
茶臼山 (26m)、帝塚山 (20m)、御勝山 (14m)、聖天山 (14m)、天保山 (4.5m)

頂上には広場があり、真田幸村について説明する看板が立っています。
名言の看板が4つあります。

  1. 恩義を忘れ、私欲を貪り人と呼べるか。
  2. 十万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか。
  3. 定めなき浮世にて候へば、一日先は知らざることに候。
  4. 関東勢百万も候へ、男は一人もいなく候

①は関ケ原の戦いのときに、東軍から誘いを受けたときに発した言葉
②は大坂冬の陣で活躍した幸村に、徳川家康から寝返りの打診があったときの言葉
③は大坂夏の陣の直前に、死を覚悟した気持ちを著した言葉
④は道明寺合戦で殿軍をつとめ、徳川方の追撃を食い止めたときの言葉

いずれも、真田幸村が潔癖で義を重んじる勇者であったことを示す言葉です。

茶臼山頂上

茶臼山は大坂夏の陣では真田幸村が本陣としましたが、その前の大坂冬の陣では徳川家康が本陣を置きました。

大坂夏の陣配置図を見ると、川に囲まれて大阪城への進撃を食い止める砦のようになっています。近くにある四天王寺や一心寺に兵を配備することもでき、守るのに都合が良いところだったようです。

この天王寺口の戦いで真田幸村率いる真田隊3500の兵は15000の越前隊と戦い、徳川家康本陣に三度まで突撃、家康の馬印を倒し、家康に自害を覚悟させるほど追い詰めました。
しかし、攻撃もここまで。兵力の少ない真田隊は家康を逃してしまいました。

幸村は傷つき疲れた体を休めていたところを討ち取られます。

安居神社

真田幸村が討ち取られた安居神社は、茶臼山から大坂城側へ300メートルほどのところにあります。
ご祭神は少彦名命と菅原道真公です。
道真公が大宰府に左遷されたときに、風待ちのため休んだために「安居」と名付けられたという伝説があり、天慶5年(942)に道真公をおまつりしたとされています。

境内には「真田幸村陣没の旧跡」として幸村の像が建立されています。

徳川家康本隊を襲って、戦い疲れたところを討たれたので地面に座っている像になったのでしょうか。
このとき幸村は49歳でした。首を取った徳川・松平隊の西尾仁左衛門に「わが首を手柄にせよ」と言ったと伝えられています。

この戦いでの幸村の活躍は強烈なインパクトがあったようです。
島津家当主・島津忠恒の手紙では「真田は日本一の兵。…… 茶臼山に赤き旗を立て、鎧も赤一色にて、つつじの咲きたるが如し。合戦場において討死。古今これなき大手柄」と褒め称えられました。

大坂冬の陣、夏の陣の活躍でスーパースターになった真田幸村。
活躍したのはわずか1年ほどですが、九度山で引きこもっているより、ずっと良かったのでしょう。
でも、もしこの戦いで幸村が家康を打ち取り、豊臣が勝ってしまっていたら、歴史はどう変わったのでしょうか。戦乱の時代が続いたのかもしれませんね。