有岡城

JR伊丹駅前にある有岡城はかつて織田信長vs荒木村重の戦いの舞台でした。

戦いが始まったのは天正6年(1578)11月。
村重側は有岡城、尼崎城、花隈城に籠城。この時期は播州三木城も反信長に立ち上がっており、本願寺とタッグを組んで、信長包囲網が形成されました。
しかし、木津川口の戦いで織田水軍が毛利・村上水軍を破るなど、信長側が反撃。
天正8年12月、信長が付城による兵糧攻めを開始すします。

天正7年9月、城主の村重は有岡城を抜け出し、尼崎城に移ります。尼崎城に移ったのは毛利との交渉をするのに便利であったとも、尼崎城が先に落城しかけていたのを助けるためとも考えられています。

天正7年11月、1年間の籠城ののちに有岡城は落城。
12月に籠城していた村重の妻子、家臣およびその妻子が信長に殺されました。
尼崎城に移った村重は、有岡城が落城したあとも戦い続けます。

天正8年(1580)1月、三木城が落城。
天正8年(1580)4月、本願寺と信長が和睦。本願寺が大阪退去。
天正8年(1580)7月、最後まで戦っていた花隈城が落城。村重は尾道に逃れました。
天正10年(1582)本能寺の変
天正11年(1583)村重は「道薫」と名乗り、堺に移る。
天正14年(1586)堺にて死去。

有岡城は南北1.6キロメートル、東西800メートルの総構えの城で、岸の砦、上臈塚砦、鵯塚の3つの砦が築かれ、主郭はJR伊丹駅前の有岡城跡史跡公園にありました。

総構え:城だけではなく、家臣や領民が暮らす城下町も含めて外周を堀や石垣、土塁で囲った構造。構えの中に領民がいて田畑があるので籠城戦に適している。

有岡城は、もともとは鎌倉時代に伊丹氏が築いた城で、伊丹城と呼ばれていました。
池田氏に仕えていた村重は池田氏を乗っ取り、伊丹氏を滅ぼして摂津を統一します。
村重は伊丹城を有岡城と改名し、惣構えの城として大改修を行いました。

有岡城跡史跡公園には石垣、建物の礎石や井戸跡が残っています。
スケールの大きな城なので、堀や土塁跡などを見て回ると、その大きさが実感できるのかもしれません。

有岡城跡史跡公園

公園の片隅に石碑がありました。
村重と妻・だしの句が刻まれています。

村重と妻・だしの句碑

だし 霜かれに 残りて我は 八重むくら なにはのうらの そこのみくつに
村重 思いきや あまのかり橋 ふみならし なにはの花の 夢ならむとは

天正8年(1580)、村重が尾道に逃れたあと摂津一国は池田恒興に与えられ、有岡城は伊丹城に改名されています。
天正11年(1583)には伊丹城主・池田之助が岐阜に転封となり、伊丹城は廃城となりました。このことを知った道薫こと村重はどう思ったでしょうか。