英賀城址

羽柴秀吉による播州の侵攻の前は、今とはまったく違う姫路があったようです。
英賀に三木氏の英賀城、御着に小寺氏の御着城がありました。当時、姫路城は小寺家の家老・黒田家の居城であったようですが、城は小さく、天守などもなかったようです。
英賀には英賀城だけではなく、本願寺派の道場があり浄土真宗の中心として信仰を集め、播磨最大の都市として大いに賑わったようです。

英賀城

岩繁城ともいう。南は海、西は夢前川、東は水尾川に面し、北は湿地帯で、守るのに大変都合の良い城であった。
鎌官時代には、砦が造られていたが、室町時代になると播磨の守護大名であった赤松氏の一族が守った。
嘉吉の乱(1441)によって赤松氏が勢力を失った後、三木氏が城主となって城をさらに整えた。天正8年(1580)秀吉に滅ばされるまで約140年問、三木氏は的形から室津の間を中心に、その周辺を支配し一大勢力を誇っていた。
城内には本丸、二の丸をはじめ、一族がそれぞれ大きな屋敷を構えた。英買御坊をはじめ多くの真宗寺院、商家や住宅が建てられ、交易の盛んな港のある城下町(四十九町・約九百軒)と大いににぎわった。

案内看板より

英賀城の縄張りを今の地図に記したものです。
この図を見ると、船場川、水尾川が堀の役目を果たしていました。また当時は、山陽電鉄網干線のところが海岸だったようです。

最初は赤松氏の城でしたが、嘉吉元年(1441)、恋浜城(姫路市白浜)の城主 三木通近が英賀に移りました。
その後、秀吉に滅ぼされるまで140年間、三木氏の居城として栄えました。

英賀城本丸の石碑

 

英賀城の創建は遠く平安期にあり、鎌倉時代 吉川、赤松氏居城す。
嘉吉元年三木右馬頭通近入場し城廊大改修の偉業をとげ海内屈指の港城を構築して岩繁城と称す。
三木歴代十世に渡り、治績大いに挙利、段盛を極め播陽の重鎮となる。
然るに羽柴秀吉中国評定の途、その攻略にあい、落城後廃墟空しく今日に至る。
郷人懐古の情に絶えず。
当時の偉容を想起して、この碑を建立して後世に伝う。

本丸跡の石碑より

三木城落城後、秀吉による英賀城攻めが天正8年(1580)2月11日から開始されます。12日夜、城内からの手引により、秀吉勢が城内に侵入。焼き討ちにより城、町が一夜にして燃え果てたと伝えられています。

英賀薬師堂

境内に英賀城主三木氏の五輪塔があります。また、土塁の一部が残っています。

英賀薬師堂
土塁跡

英賀神社

英賀神社には土塁の跡が残っています。

英賀神社に残る土塁(英賀神社の外側から)
英賀神社に残る土塁(英賀神社の内側から)

英賀神社の北にある英賀城址公園に、この公園のために造られた土塁があります。

明蓮寺、英賀本徳寺跡の碑

英賀の真言宗の中心となった英賀本徳寺跡を示す碑が明蓮寺境内にあります。

明蓮寺は、英賀本德寺が建立された直後の永正14年(1517)建立。
当時、英賀は浄土真宗に帰依した三木一族を中心に運営される自治都市・寺内町で、織田信長と戦う大坂の石山本願寺と深い繋がりをもっていた。
天正8年(1580)、羽柴秀吉によって寺内町 は解体された。
その時、英賀本徳寺は亀山へ移された(亀山本徳寺)が明蓮寺は英賀の地に残った。

案内板より
英賀本徳寺跡の碑
明蓮寺

田井ヶ浜跡と巽地蔵

英賀に上陸しようとした5000人の毛利勢を、黒田官兵衛がその10分の1、500の手勢で追い返した戦いがありました。
田井ヶ浜跡を示す碑は山陽電鉄網干線のすぐ北側に建っています。
昔はこの辺りが海岸線で英賀港があったようです。今、海岸線はずっと南に移動していて、港があったなど信じられません。

天正4年(1576)、官兵衛の進言により御着城主・小寺政職が織田家に与することを決めると毛利水軍5000人が田井ヶ浜に上陸するが、官兵衛は500の手勢で毛利軍を追い返し、一躍その名を高めることとなった。
英賀港は古代からの港で、室町時代には英買城下の市場町で天正8年(1580)の英買城城まで交易の港町として栄えた。しかし落城後は荒れ果て、熊谷家がこの地を清め、地難を祀りました。
この地は英買神社の巽方向に当たるため巽地蔵と呼ばれた。

案内板より
田井ヶ浜跡の碑
巽地蔵

播磨灘物語

司馬遼太郎氏の「播磨灘物語」の碑が英賀神社内にあります。

英賀城で黒田官兵衛と毛利の戦いがあったとき、司馬遼太郎の先祖が黒田の兵士として戦ったという伝承があり、この伝承が触媒になって播磨灘物語の構想がふくらんだ、ということです。

姫路城ができる以前の姫路の歴史があった。