姫路・魚吹八幡神社

魚吹八幡神社はちょうちん祭り、武人祭で有名な、非常に歴史がある神社です。
御祭神は息長帯比売命(オキナガタラシヒメノミコト 神功皇后)、品陀和気命(ホンダワケノミコト 応神天皇)、玉依比売命(タマヨリヒメノミコト)です。
創建は仁徳天皇七年(319)と伝えられています。

神社の由来が次のように述べられています。

魚吹八幡神社の起源は神功皇后摂政三年(202)、西海より御環幸のとき、お艦(ふね)を宇須伎津の湊に泊められた際、皇后御神託を受け此処に浄地を開きー小社を造り、玉依姫命を奉祀して敷島宮と号せられました。第16代仁徳天皇御霊夢を畏み給いて紀角宿禰を遣わされ、319年頃、上の御三神を崇め祀られました。第25代武烈天皇七年(505)に至り、魚の砂吹き寄せの故事に依り魚吹大神宮と号せられました。
神亀二年(725)播磨大掾吉備朝臣魚養公、神域を営繕しましたが、保元の頃(1165年〜1158年)、石清水八幡宮の別宮となり源平の乱世も公武の厚く保護せられるも、天正四年(1576)兵火に罹り社殿すべて灰尽となり祭祀の中絶のやむなきに至りました。後、正保二年(1645)網干3ヶ村、氏子協力して正殿を再建し、1650年以上に亘り、当地方の産土神として信仰と伝統が受け継がれてきました。今日では氏子25ヶ村、戸数15000戸を擁し特に秋の例祭には見事な屋台練りと宵宮の華麗な提灯練りが繰り広げられます。

網干地方史談会の看板より

また魚吹八幡神社のホームページには「魚吹」と「網干」の由来が説明されています。

魚吹(うすき)の由来について、播磨國(はりまのくに)風土記(ふどき)には宇須伎津と見え、本来、当地方は海べりの砂堆積地であった。
神功皇后伝説と相交わり、魚が群れをなして砂を吹き寄せて、土地が出来たと云い伝えられている。
これは洋の東西を問わず語られる神話的方法で、魚は人とおきかえ、すなわち、多くの人々が、海を埋め埋めして開いていったと解する

網干(あぼし)の地名も、当社祭礼に、漁民が一斉に、休漁して網を干して参詣したので網干と云うようになったと伝えられている。

神門は楼門になっていて、兵庫県の重要文化財に指定されています。鬼瓦および丸瓦に貞亨三年(1686)の刻銘があります。

一の鳥居
神門

本殿は正保2年(1645)の再建と伝えられています。姫路市の重要文化財に指定されています。

拝殿
本殿

力石を曲持ちしている三ノ宮卯之助の像があります。

※三ノ宮卯之助
江戸時代、武州岩槻藩三野宮村(埼玉県越谷市)出身の力持ち。
卯之助が持ち上げた石が越谷市久伊豆神社、東京都深川八幡神社、鎌倉市鶴岡八幡神社、長野諏訪神社などに残っているそうです。
仲間と一座を組んで諸国を興行して回ったようです。
魚吹八幡神社にも来たのでしょう。
卯之助が持ち上げた石で最も大きいのが桶川稲荷神社の力石。大盤石(だいばんじゃく)と言われ610kgあるそうです。オリンピックで金メダルが取れるのではないでしょうか。

三ノ宮卯之助

天満力石
魚吹八幡神社秋季例祭宵宮の日に蛭子神社と神明神社が宮入した後、まわし姿の練り子が地区住民の前で、力士として七斗石(97.5キログラム)の力石で力持ちに挑む。
享保年間(1716~1735)より続けられていると伝えられる。
力持ちの形態には石担ぎ・石ざし・片手止め・振りさし・曲持ち等があったことを知りうるが、天満力石の力持ちは力石を肩に担ぎ上げる「石担ぎ」の形態である。

姫路市ホームページより

招魂社がります。「招魂社」は陸軍大臣 寺内正毅の書です。

寺内正毅大将は明治、大正期に活躍した軍人、政治家です。韓国併合後、初代朝鮮総督に就任しています。第18代内閣総理大臣を務めました。

放生池には鯉がたくさん泳いでいます。

放生会のとき、漁師が一斉に網を干したので地名が「網干」になったと伝えられています。

池田昌夫先生詩碑が境内にあります。

池田昌夫氏は網干出身の詩人で武庫川女子大学文学部の教授を務められました。詩集に『自燈』、『時の押花』、『祭の夜』などがあります。

魚吹八幡神社の氏子総代も務められたそうです。