念仏山教信寺

教信寺は承和3年(836)、加古川にやってきた教信上人が建てた庵がその創建とされています。
教信上人は日本で初めて浄土信仰を実践した人として、鎌倉時代に浄土真宗の開いた親鸞、時宗を開いた一遍から念仏者の先達として敬われました。
教信上人は天応元年(781)の生まれとされているので、奈良時代 から平安時代初期、天台宗を開いた最澄や空海と同時代の人物です。

天台宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来です。平安時代前期の僧、沙弥教信(しゃみきょうしん)がこの野口に庵をつくりました。念仏を唱えながら仏の教えを説き、お百姓の手伝いをし、わらじを作って貧しい人に与えたり、旅をするお年寄りの荷物を運んだりして、大勢の人を助けたことから「荷送り上人」や「阿弥陀丸」とも呼ばれました。庶民仏教の普及に努めた庵跡に建てられたのが教信寺です。境内の左手奥 に教信上人廟があります。春には、満開の桜が境内を彩ります。

「わがまち加古川60選」より

教信寺の前の道は西国街道。西国街道は京都から下関まで通じていました。

教信寺から西の方へ行くとすぐに、「おりいの清水」という井戸があります。江戸時代には瀬戸内海を行く船が水を汲んだそうです。
西国街道を通う人たち、船で訪れる人。
多くの人が教信寺にお参りしたと思います。

風土記の道の碑

山門の脇には教信上人示寂の地、念仏道場の柱が建っています。

山門
本堂

本堂は天正の兵乱で消失。
元和年間(1615〜1623)に一度再興されますが、天宝11年(1840)に再び焼失。
現在の本堂は明治13年(1880)に書写山如意輪寺にあった念仏堂を移築したもので、平成7年(1995)の阪神淡路大震災による損壊から復興されました。

 教信上人は天応元年(781)奈良に生まれ、興福寺で学んだ後、16歳の時に同寺を出て諸国を行脚し、40年余りの後、 賀古の駅にたどり着き庵を結びました。加古川での教信の活動は、ひたすらに念仏を唱えながら、街道を行く旅人の手助けをするというもので、東は明石から西は阿弥陀宿(現高砂市阿弥陀町)まで荷物を運んだと言います。また、教信寺の南に広がる駅ケ池も教信が地元の人々と掘った物だと言われています。貞観8年(866)、自らの死期を悟った教信は、妻と子に遺骸は庵の側に捨てて鳥獣に施してほしいと言い残して亡くなりました。 同じ時摂津国勝尾寺(現大阪府箕面市)の僧勝如の夢に教信が現れ、自らの死を告げました。不思議に思った勝如が弟子を加古川へ走らせると、そこには頭部だけがきれいに残った教信の遺骸がありました。これが、現在教信寺に伝わる教信頭部像だと言われています。

教信寺・説明看板より

この説明によると、加古川に来たのが56歳かそれ以上のとき。
修行とはいえ、その年齢で旅人の荷物を運んであげたというのだからすごい。
しかも、明石から阿弥陀(高砂市)までの6〜7里(24〜28 km)の距離です。
人々は教信を「荷送の上人」とか「阿弥陀丸」と呼んだそうです。
教信上人は庵に仏像を置かず、念仏を唱えながら荷を運んだというので、仏者とは思われなかったのではないでしょうか。

教信が掘ったという駅ケ池については次の話が伝わっています。

人々は、池に魚が住むようになると、悪いとも思わずこの池の魚や亀を食べていました。上人は悲しみ、いろいろ諭しましたが効き目がありません。それどころか、上人にまで食べろとすすめる始末でした。
上人は人々を諭すために魚を食べ、池にいって吐き出した所、生きた魚となって泳ぎ出しました。皆は驚き、ひどく感心して殺生を止めたといいます。その後、この池の魚に「一つ目の魚」が住み、人々は「上人魚」と名付けあえて取らなくなったといいます。

 86歳で教信上人が亡くなられたとき、紫雲が空をおおい、かぐわしい匂いが四方にたちこめたといいます。
その遺骸を鳥獣に与えたということから、風葬だったと考えられます。
遺体はトビ・烏・き つね・たぬきが競い合って食べたものの、首だけはまったく損壊されず、その顔は笑うがごとくであったといいます。

開山堂の本尊は教信上人頭部像。
上人が亡くなられたとき、頭だけは無傷で残ったということを伝えるものです。

開山堂
薬師堂

また、教信上人が亡くなるとき、摂津国勝尾寺の僧勝如の夢に教信が現れたという話ですが、そのとき勝如は10年もの間、無言の行を続けていたといいます。
10年間、しゃべらずに過ごしていた勝如。
自分の遺骸を動物に捧げた教信上人もすごいですが、勝如もすごい。

境内の左手に教信沙弥廟があります。

石造五輪塔側門

教信沙弥廟には五輪塔、古墳の石棺のふたなどの石造物が並んでいます。

石垣で囲まれた五輪塔が沙弥教信の墓塔と伝えられています。
鎌倉末期の元亨3年(1323)一遍の弟子の湛阿(たんあ)が勧進となって教信廟を造ったとされています。

沙弥教信の墓塔と伝えられる石造五輪塔

教信寺は天正の兵乱、元和年間の火災で寺伝などが燃えてしまい、記録が残っていないそうです。教信上人のことが記録されている最も古い書物が寛和2年(986)頃に書かれた「日本往生極楽記」。この書に摂津国勝尾寺の僧勝如の夢に教信が現れたこと、教信の遺骸を動物が食っていたことが書かれています。
教信が加古川に来たのが836年。「日本往生極楽記」はそれから150年後です。
教信の生き様、死に方はすごいインパクトを持った伝説を残していたのでしょう。