加古川・那須与一の石仏

加古川市東神吉町に那須与一の石仏というのがあります。

那須与一は源平合戦の屋島での戦いで、平家の軍船に掲げられた扇の的を射落としたことで有名な武将です。
生まれは関東。京都伏見で死去されたようで、神吉町とは全く関係がなさそうです。

以下の由緒が記されていました。

昔、須磨にある那須与一の墓に毎月7日、熱心にお参りしていた播磨のある人の夢枕に那須与一が現れ「汝、我を信じて遠い所からこの地に参詣してくれているが、我が病気に掛かっていたおり播磨国神吉庄高野山(たかのさん)慶妙寺に参籠していたがついに落命せり、現在、神吉村の西にある釈迦堂という所で火葬されたが、そこにある半折れの石仏は我の像なり これよりそこに参詣すべし」とのお告げがあった。
翌日
その場所を訪ねてみたところ、夢のとおり半折れの石佛があったので大喜びしたそうです。遠近の者はそのことを伝え聞き毎月7日には多くの人々がこの石佛にお参りするようになったとのことです。

この石佛にお参りすると「長患いをしなくてもすむ」といわれており、今も毎月7日には、多くの人々が参詣に訪れます。
                    平成26年3月吉日 神吉町町内会

神戸市須磨の碧雲寺宗照院には、那須與一宗高公御墓所という与一の墓とされるものがあるそうです。

那須与一さんたち
半分に切られているのが那須与一さん

加古川市文化財保護協会の説明看板によると

  • 中央の石仏は家形石棺の蓋に地蔵菩薩坐像が彫られている。
  • 半分に折れた石仏は、石棺の身に地蔵菩薩立像を掘ったもの。
  • 室町時代中期以前に造られたものと考えられている。

ということで、かなり古いもののようです。

石仏の周りを五輪塔が囲んでいます。

ここには屋根付きのベンチがあり、公民館のようになっています。
なぜ那須与一か?とは思いますが、なんか楽しい雰囲気がありました。