姫が塚

国道372号線の小原交差点手前に小さな道標があります。

道標には『右 ほっけ、左 たんば』と刻まれています。
道標の左側、国道372号線は昔の丹波道。
右へ続く道(写真の田んぼの脇の道)は法華山一乗寺へ行く巡礼道だったとのことです。

そしてその巡礼道を進むと姫が塚の五輪塔がありました。
「姫が塚」というのは、平安時代の終わり頃に自分の娘をそれとは知らず殺してしまった盗賊の話です。

明治のかたりべ集という小冊子に「姫が塚」の話が出ています。
そこには「姫が塚」の由来について3つの物語が述べられています。

むかし、神崎郡、加西郡から法華山一乗寺へ参詣する道に姫ヶ塚という小塚があって、五輪の塔がありました。
ここはもともと印南郡東志方村畑というところですが、飾東郡小原村との峠ざかいになっており、平安の終り頃には藤原純友など悪党の一派で袈裟太郎という盗賊がはびこって農夫とともに夜になると、追い剥ぎに出ていました。
ある日のこと、畑村から小原へかけて峠道を上って来る年若い女がありました。
この女は、先頃、嫁に出た袈裟太郎の一人娘で、早く実家へ帰ろうと道を急いでいたものです。
こんなこととはつゆ知らぬ袈裟太郎は手下どもを待ちぶせさせて、あわれにも背後からわが娘を切りつけてしまいました。
わが娘を切った袈裟太郎は、その後いずこともなく消え失せ、再び現れることはありませんでしたので、村人たちはあわれに思いここに五輪の塔を建て供養しました。
嘉吉の頃(一四四三)赤松満祐が、京で将軍義教を殺し追手の軍に木の山の城に攻められ、落城のとき、媛君が家臣に救われ、加西剣坂を越して御着に出る途中、加西中山にて追手の兵に追いつかれこの峠の御堂に難を避けていましたところ、防戦の従者打ち敗れ、敵に見破られて遂に自害し果てました。
この血が流れたところを血の池といい、媛の自害したところを局堂といい伝えています。
また、小原の村人が媛を葬ったところを姫ヶ塚と呼んでいます。
そして、印南郡志方町畑字殿垣内は逃げ延びた従者が永住したところと伝わっています。
一説によりますと正平五年(一三五〇)春、塩谷判官高貞の妻顔世御前(藤の前)がこの地で病死したものを円通寺縁起が誤って引用したとする説もあります。(飾磨郡誌)
この媛ヶ塚は、現在飾東町小原の東端の細い旧道の土堤下に草にかくれてひっそりと安置されていますが、御堂も覆もありません。相当大きい五輪の塔ですので、盗族の娘にしてはふさわしくありませんし、顔世御前の最期は酒井村の方が著名ですし、ひょっとすれば少し時代の降った赤松満祐の媛たちの塚ではないかといわれていますが、詳しい記録がないのでよくわかりません。

五輪塔は約160cmの高さがある大きいもので、建武四年(1337)の銘があります。
建武四年に建立されたとすると、赤松満祐とか塩冶判官の話とは年代が合わないように思います。
やはり、父親の袈裟太郎に殺された娘の供養塔なのかもしれません。