赤穂市坂越・児島高徳の墓

赤穂市坂越に南朝の忠臣・児島高徳の墓があります。

児島高徳は南朝の忠臣。
後醍醐天皇が隠岐島へ護送されていく途中、院ノ庄(岡山県津山市)で宿所に忍び入り、桜の木に10字の漢詩「天莫空勾践 時非無范蠡」を刻んだことが知られています。
しかし、太平記以外に確かな資料がなく、詳しいことがわかっていないようです。

養父・和田範長とともに南朝方に味方し、戦いを繰り広げますが、熊山の戦いで負傷した高徳は坂越の妙見寺で傷を癒やすことになり、範長と別れます(建武3年/1336 範長は足利勢との戦いの末に自害する 六騎塚)。
傷を癒やした高徳は、その後も南朝方として北陸(金ヶ崎城)、小豆島攻略などで戦い続けます。正平7年(1352)に後村上天皇を奉じて上洛を試みた児島三郎入道志純と言う人物は、出家した高徳と言われています。

太平記の中で高徳は、児島備後三郎高徳、小島備後三郎、児島三郎高徳、児島備後守高徳、三宅三郎高徳、今木三郎高徳、児島三郎入道志純と名前が変わっていきます。
高徳に関する記述が詳細なことから、高徳が太平記の作者(小島法師説)ではないかという説があります。

謎の多い高徳ですが、墓は坂越、米子、群馬にあります。
ここ、坂越では高徳は正平20年(1365)妙見寺で死去、享年54歳となっていました(妙見寺の説明板より)。

坂越の児島高徳の墓

児島高徳の試みはほとんど成功しなかったように思うのですが、そんななかで15年近く戦い続けた執念はすごいと思います。
また米子や群馬では違ったストーリーがあるかもしれません。