御着城は黒田官兵衛の主人である小寺家の城です。
御着城址はJR姫路駅から東へ二駅の御着にあります。
黒田官兵衛の時代は小寺政職が御着城主で、黒田家の姫路城より御着城のほうが大きい城でした。
現在、本丸と二の丸跡にお城の形をした姫路市役所東出張所が建てられています。
国道が城跡を二分しており、国道の北側には姫路市役所東出張所と復元した天川橋、黒田家廟所があります。国道の南側には小寺氏を祀った天川神社(小寺大明神)があります。
御着城址
姫路市役所東出張所に本丸、官兵衛ゆかりの碑があります。
出張所前の庭には黒田官兵衛顕彰碑、黒田家ゆかりの目薬の木が植えられています。
司馬遼太郎の播磨灘物語では、備前から姫路に来た官兵衛の祖父 重隆が、広峯神社で暮らしたときに目薬を作ってお金を儲け、黒田家の資金源にしたと書かれています。
天川橋
姫路藩が文政十一年(1828)に旧西国街道の天川に架橋した総竜山石製の太鼓橋です。
全長 26.6 m、幅 4.5 m、高さ約 5 m。
5本の橋脚で支えられています。
印南郡の石工 瀬助、仲右衛門の作です。
黒田家廟所
黒田官兵衛の祖父 重隆と母をお祀りしています。
重隆は御着城主小寺家の家老となり、姫路城を居城としました。
姫路城といっても、今の姫路城と違い砦程度のものだったと考えられています。
重隆の後、子の職隆(もとたか)、孫の官兵衛が家老職と姫路城主を継ぎました。
天正八年(1580)秀吉の播磨進出のとき、官兵衛は姫路城を秀吉に譲り、国府山城(姫路市妻鹿)に移りました。
廟所は福岡藩主であった黒田家が享和2年(1802)に完成させました。
御霊屋に官兵衛の祖父 黒田重隆と、母(明石氏)の五輪塔があります。
職隆の墓は妻鹿にあります。
天川神社(小寺大明神)
姫路市役所東出張所から国道を挟んで向かい側にあります。
御着城の城主であった小寺一族と御着城に関係する人々をお祀りしています。
ここを調査したときに出土された石仏と五輪塔を復元し、秀吉軍との戦いで亡くなられた人を弔っています。
※小寺政職 通称:藤兵衛
当初は播磨赤松氏に従う。
天正三年(1575) | 織田信長に臣従。 |
五年(1577) | 英賀の戦いで毛利に勝利。 |
六年(1578) | 三木の別所長治が織田に反旗。摂津の荒木村重が謀反。 政職も織田に反旗を翻す。 |
七年(1579) | 御着城を捨て逃亡。毛利を頼る。 |
十年(1582) | 死去 |
政職の子孫は黒田官兵衛の口添えで秀吉に許され、官兵衛の家来になりました。
今の姫路城ができる前、秀吉が播磨に来る前の歴史がここにもありました。