平荘湖

平荘湖は昭和41年(1966)に建設された平荘ダムによって造られたダム湖です。ダムの貯水量は900万立方米。沿岸部の工業地帯に水を供給するために造られました。
湖の外周は約5km。たくさんの人が散策していました。

弁財天神社

村人と親しくなった弁天様が片袖を残していったという伝説が残っている弁財天神社。
平荘ダムの建設のために現在地に移されました。

正式名称は市杵島神社でご祭神は市寸島比売命。神仏習合で市寸島比売命は弁財天(弁天様)とされました。

弁天様については次の話がありました。

兵庫の又部新田村に弁天池があった。池の守り番をしていた百姓の彦衛門に、あるとき弁財天が「お前の家に遊びに行ってやろうと思うが、天界の身の我は家人に姿は見せられぬ。」と告げた。彦衛門は嫁を里に返し弁財天を迎えた。
怪しんだ嫁が戻り夫婦喧嘩になった。
弁財天は「人界の者に姿を見られた以上、もう我はこの村にはおられん」こう言うと雲に乗って去ってしもうた。
その時、すがりついた彦衛門が弁財天の片袖をちぎり、その片袖を御神体として祀ったのが弁財天神社になった。

Bancal 2020秋号より

弁天様はなぜ彦衛門が良かったのでしょうか。ハンサムだったのか。
弁天様に「遊びに行ってやろう」といわれたら、どんな気持ちになるのかな。
そして、夫婦喧嘩が始まるまで、どんな遊びをしたんだろう。
ゾクゾクする? ちょっと怖いような。。。

平荘湖は冬になると約1万羽のかもなどの渡り鳥がやってくるそうです。
鴨塚の碑がありました。さまざまな種類の鳥がやってくるようです。

境内には家形石棺のふたがあります。
これは推児窟古墳の石棺の蓋で、平荘湖建設にともなう弁天神社の移転にあわせて、ここに運ばれたそうです。
説明看板には「印南郡誌によれば、姫路城主榊原式部大輔が鷹狩りにこられた時、この石棺の身の方をご覧になって、よい泉水だと懇望され、多くの人夫が大八車に乗せて投松まで行ったが、あまりに重くて動かなくなり、投松峠に放り出してきた」とありました。

調査の結果、投松の身と、このふたがぴったり一致するので、一対のものだと確認されているそうです。
しかし、放ったらかしにした人夫たちは、殿様に怒られなかったのでしょうか。

ふたは屋根の形をして、突起があります。これは縄掛け突起というそうです。

うまく加工していると思います。今から1000年以上前に、こういう加工ができたのですね。

石棺の身

石棺の身は加古川市投松(ねじまつ)公民館に置かれています。

この身の上に、弁財天神社のふたがのせられていたのですね。

投松公民館

平荘湖古墳群

今は平荘湖に水没してしまいましたが、この地域には100基を超える古墳群がありました。加古川下流域最大の古墳群です。
出土した副葬品は加古川文化センター博物館に展示されています。

下の写真の古墳は高台にあっったので水没を免れました。

升田山15号墳

平荘湖の西岸にある升田山15号墳。
古墳時代後期(6世紀後半〜7世紀初頭)に造られた古墳で、玄室の長さ5.1m、幅2.2mの大きさです。

中に入ってみました。大きな石を組み合わせて造られています。こんな大きい石を動かして、部屋を作るように組み合わせるのは、人力しかない時代では大変な作業だったと思います。

八十の岩橋

播磨風土記の印南郡益気(やけ)の里の条に升田山、八十の岩橋が述べられています。
「やけ」の名は大帯日子命(おおたらしひこのみこと:景行天皇)が屯倉を造ったので「やけ」とと名付けられた。この地で石棺のふたと身を造っていたので、升形山と名付けられた、ということです。
景行天皇は美人の印南別嬢(稲日大郎媛)にちょっとストーカーぽいアプローチで求婚した天皇です。屯倉を造ったというので、このあたりにも来ていたのでしょう。

升形山には石の橋があるが、播磨風土記が作られた8世紀初頭からみても昔々、この橋は天まで達していて、八十の人々が天と地を往来していた。そのため、八十の岩橋という。


八十の岩橋の登り口に「風土記の道」の碑があります。
そしてその横にチェーンが・・・

傾斜がすごく急で、岩肌が露出してします。チェーンとロープがないと登れません。
登るときはまだよかったのですが、降りるときは、転げ落ちないかと怖かった。

ようやく山頂に到着。標高は105m。低い山ですが、登るのは疲れました。

しかし、ここからの眺めはすばらしい。
平荘湖、遠くには淡路島。眼下には加古川の流れ。古代の人も同じように加古川を眺めたでしょう。