一遍上人示寂の地・西月山真光寺

神戸市にある真光寺は時宗の開祖・一遍上人がお亡くなりになったお寺です。

正応2年(1289)7月、病を得た一遍と時衆たちは淡路島から明石に渡り、光明福寺の観音堂に入ります。
8月23日、看護の甲斐なく一遍上人51歳で往生。

この光明福寺が現在の西月山真光寺です。
一遍の弟子、2代目遊行上人 他阿(真教)が寺を建て、伏見天皇から真光寺の名を賜り、播州守護の赤松円心から寺領の寄進を受け、大寺院となりました。
西月山の山号は後醍醐天皇から勅賜されています。

古い歴史を持つ真光寺。境内にはいろいろな物があります。

御膳水の井戸

平清盛公が弁財天を勧請したときに、宋がこの井戸の水でお茶をたてて献上したと伝えられています。

清盛公は大輪田の泊の安全を祈願し、厳島明神を勧請。7つの七弁財天を祀りました。
真光寺には真野弁財天があったそうです。
「清盛七弁天めぐり」では真光寺は音楽弁天になっています。

御膳水の井戸

真光寺亀

以前は真光寺に池があり、亀がたくさんいたそうです。
これは池の中にあった石の亀(真光寺亀)。
頭をなでると願いが叶うらしいです。

真光寺亀

無縁如来塔

たくさんのお墓が積み上げられた如来塔。
戦前にあった阿弥陀堂跡に建立されたと伝えられています。

無縁如来塔

遊行柳と句碑

遊行柳と「植えて又 杖ついてみる 柳かな」
という句碑です。
謡曲「遊行柳」によって知られる柳の枝を、安永3年(1744)に浪華の俳人佐々木泉明が真光寺に移し植えました。現在野柳は3代目の遊行柳ということです。

遊行柳、句碑

本堂、観音堂

本堂と観音堂は阪神淡路大震災で倒壊。その後、復興再建されました。
一遍上人は観音堂でお亡くなりになられました。当時はどんな建物だったのでしょう。

本堂
観音堂

熊野権現社

文永11年(1274)、賦算(ふさん)という念仏札を配っていた智真(一遍)ですが、賦算の受け取りを拒否され、自分の布教の仕方に疑問をいだき、熊野本宮大社で祈り続けます。

すると夢の中に、熊野権現が現れ「一切衆生の往生は、阿弥陀仏によってすでに定まっているのだから、人の信心や浄不浄は関係ない。ひたすら南無阿弥陀仏をとなえ、念仏札を配ればいい」と告げられます。
このお告げにより智真(一遍)は他力本願の極意を悟ります。

熊野権現社

これを「熊野成道」と呼び、時宗ではこの年を開宗の年としています。また、智真という名を改めて一遍と名乗ったのもこのときからです。
熊野権現社は時宗にとって大きな意味を持つのですね。

廟所

自分の教団も寺も持たなかった一遍上人。
「我門弟におきては葬礼の儀式をとゝのふべからず。野に捨ててけだものにほどこすべし」と言い残します。死んだ後、葬式はしなくてもいい。死体は野に捨て、犬や獣の餌にすれば良い、という意味です。一遍が尊敬していたという教信上人と同じようにしたかったようです。

廟所

でも、大きなお墓が造られています。
一遍上人は先の言葉に続けて、「但し、在家のもの結縁のこころざしをいたさんをば、いろふにおよばず」と言いました。一般庶民が葬儀を仏法に縁を結ぶ機会にしたいと思うならば、じゃまをしてはいけない、ということでした。

一遍の墓所
五輪塔

これを聞いた人たちは、観音堂の松の根本で遺骸を荼毘に付し、骨を備前焼の骨壷に収め、木造を御影堂に修めました。

民衆の中で遊行を行い、布教を行った一遍。民衆たちが自発的に弔ってくれたことを一遍は喜んだと思います。