常山は標高 307 m。児島富士と呼ばれる山です。
その山頂に常山城跡があります。
Googleマップで「常山 女軍の墓」を見つけて、興味が湧いたので訪問してみました。
山頂へは車道があり、車で登れます。今回はサイクリングで来ていたので、頑張ってヒルクライムをしてみました。
途中、道に迷いながら登っていくと、友林堂という霊廟がありました。
常山城主・戸川友林の位牌を安置している霊廟です。境内には戸川友林と友林の重臣と伝えられる日賢、日教の墓があります。
その後、車道に出、ヒルクライムです。
麓から山頂まで約3km以上。暑くて、きつくて、夏にこんな苦行をするべきではなかったと後悔しながら登っていき、ヘトヘトになって山頂駐車場に到着。
常山城の歴史を説明する看板がありました。
- 城郭は山頂の本丸を中心に14の曲輪で構成される連郭式山城。
- 築城は戦国時代初期。
明応元年(1492)、上野氏が常山城を拠点に児島支配を始める。 - 城主は上野氏、戸川氏、伊岐氏が知られている。
- 天正3年(1575)の戦いで、当時の城主・上野氏は毛利氏によって滅ぼされた。
- 毛利氏の築城技術である竪堀、堀切がないので、毛利氏以後、城主になった戸川氏によって整備されたと考えられる。
- 慶長8年(1603)、廃城となった。
女軍の墓は二の丸跡にあります。
説明看板には次のように書かれていました。
ここ常山城は、常山女軍が戦った城として知られています。 天正3年(1575)6月7日、城主上野肥前守隆徳の守る常山城 は、毛利・小早川隆景の大軍に包囲され落城の時を迎えてい ました。 本丸直下のこの二の丸付近に迫った敵将浦宗勝の軍勢に対し、城主隆徳の鶴姫以下34人の侍女達は最期の戦いを挑みました。しかし、女性達は次第に討ち取られ、鶴姫は本丸に引き上げ自刃したと伝えられています。
玉野市教育委員会の説明看板より
昭和12年(1937)、城主一族と女軍の冥福を祈って40基の墓石と墓碑が建立され、戦国の世の人々は今、桜木や紅葉に囲まれて静かに眠っています。
鶴姫は天文23年(1554)頃、上野隆徳公と結婚。落城はそれから20年後です。山頂の碑によると鶴姫は33歳でした。
このお墓のたたずまいを見て、女34人で敵に向かっていったというのは、勇敢というより悲壮な、悲惨な感じがします。
相手になった浦宗勝も嫌だったのではないでしょうか。
山頂には上野隆徳公の碑と腹切岩がありました。隆徳公はこの腹切岩で切腹したと伝えられています。
山頂からは周囲がよく見えます。
この風景を見ていると、キツかった登りを忘れることができました。