八百屋お七の比翼塚・諏訪山吉祥寺

諏訪山吉祥寺は長禄2年(1458)、太田道灌によって創建されます。
天正19年(1591)には水道橋あたりに移りますが、明暦の大火(明暦3年/1657年)で類焼。
現在地に移転しました。

山門には「旃檀林」の額が掲げられています。

吉祥寺には「旃檀林」という学問所(僧侶養成機関)があり、幕府の昌平坂学問所と並び称されていました。学生(学僧)の数は一千名を超えていたといいますから、マンモス校だったようです。
江戸にあった曹洞宗の学寮(吉祥寺の「旃檀林」、青松寺の「獅子窟」、泉岳寺の「学寮」)が現在の駒澤大学に変わっていったということで、駒澤大学の校歌には「旃檀林」が出てくるそうです。

旃檀林の山門

旃檀林が創設されたのは文禄元年(1592)。そこを起源とすると、駒澤大学は430年の歴史があります。こんなに古い歴史がある学校は少ないと思います。

経蔵は旃檀林の図書収蔵庫でした。
すごい数の資料があったのでしょうね。
文化元年(1804)に再建されたもので、文京区の指定文化財となっています。

経蔵

境内は広く、この広さなら一千名の学僧を収容できると思いました。

本堂
鐘楼

境内墓地には大名、旗本、榎本武揚ら有名人の墓が立ち並んでいます。
そして、二宮尊徳のお墓がありました。

二宮尊徳・金次郎は小学校の片隅に薪を背負って本を読みながら歩いている像(負薪読書図)を思い出します。
江戸末期の人で、小田原藩やその他の藩の農村復興に尽力したということでした。
「負薪読書図」のイメージが強く、実際に何をした人なのかは知りませんでした。
銅像を建てるだけではなく、その理由とかも教えてくれたら楽しくなると思います。

二宮尊徳翁の墓

参道脇に八百屋お七と吉三郎の比翼塚があります。そばには大きな釈迦如来像。

お七と吉三郎の比翼塚
六地蔵と釈迦如来

釈迦如来像は享保7年(1722)の建立で古い感じがしますが、比翼塚はけっこう新しい。
これは、お七生誕300年記念の昭和41年(1966)に建てられたもので、井原西鶴の「好色五人女」で、お七は吉祥寺に避難し吉三郎と恋仲になったとされていることにちなんで、吉祥寺に建てられたようです。

お七の実在は不明で、恋人は吉三郎、吉三、生田庄之介など、避難場所は吉祥寺、圓乗寺、正仙院など、多くのバリエーションがあって、どれが真実が確定できていません。
だからこそ、さまざまなストーリーが考えられ、各所にお七を供養するものが作られるのかもしれません。
謎を秘めたお七はスターですね。