萱の御所跡・薬仙寺

平清盛が福原遷都を挙行したとき、後白河上皇を幽閉したという萱の御所跡がある薬仙寺。
天平年間(729〜748)に行基が開山したと伝えられています。

この地は奈良時代行基菩薩が開いたと傳えられる大和田の湊に接し平安時代にはたびたび千僧供養が行われた所である。
承元元年(1207)法然上人が讃岐へ下るとき、ここへ立ち寄り大衆を教化され、文久元年(1861)には英国初代公使オールコックの一行が兵庫開港予定地を視察するため宿泊したゆいしょある寺院である。

説明板より

境内には萱の御所跡の碑、花山法皇の歌碑、日本最初の施餓鬼会の碑、詠歌踊り念佛連名、後醍醐天皇御薬水、神戸大空襲犠牲者慰霊碑、福原地区空襲被災者供養塔がありました。

萱の御所蹟碑

紋を入ってすぐのところに石碑が立っています。

萱の御所蹟碑

「牢(楼)の御所」ともいい、平清盛が後白河法皇を幽閉した建物で、三間四方の粗末な造りであったという(平家物語)。伊豆国に流された際に源頼朝と出会った文覚上人は、後にこの御所に忍び入り平家追討の院宣(上皇及び法皇の命を奉じて出す文書)を賜ったと伝えられている。

説明板より

昔は、もう少し北側にあったようですが、新川運河の拡張工事(昭和29年/1954年)のため、薬仙寺に移されたものでした。

平家物語では、後白河上皇は狭い牢に閉じ込められたかのように書かれていますが、藤原兼光の日記『玉葉』には、「内裏 平中納言頼盛の家。上皇 禅門の別庄。法皇 平宰相教盛の家」とあるので、ていねいな扱いを受けたのではないでしょうか。

花山法皇歌碑

17歳で即位した花山天皇は愛する弘徽殿の女御(藤原忯子)が亡くなった悲しみの中、藤原道兼にそそのかされて出家、天皇を退位しました。在位はわずか1年。19歳での出家でした。

花山法皇は大輪田の海を愛し、しばしば薬仙寺を訪れたと伝えられています。

有馬富士 ふもとの霧は海に似て 波かと聞けば 小野の松風

石碑に刻まれたこの歌は花山天皇が隠棲された花山院の御詠歌でした。

花山法皇歌碑

詠歌踊り念佛連名

時宗の開祖・一遍上人はすぐ近くの真光寺で亡くなっています。
そのため兵庫津では踊り念仏が盛んで、江戸時代からは福原西国霊場巡拝も盛んとなり、御詠歌と踊り念仏をミックスした庶民的芸能が生まれたという説明がありました。
左右の石碑には、踊り念仏をした兵庫津の有力町人や夫人たちの名が記されているそうです。

右 萬延元年碑(1860) 左 嘉永5年(1852)

日本最初の施餓鬼会の碑

薬仙寺では天平18年(746)に日本最初の施餓鬼会が行われたと伝えられています。
施餓鬼会とは「生前の悪行などにより餓鬼となった霊魂や、無縁仏など供養されない死者に対して施しを行う法会」ということです。

日本最初の施餓鬼会の碑

後醍醐天皇御薬水・薬師出現古跡涌水

薬仙寺の本尊・薬師如来が現れた霊泉です。
元弘の変(1333)で後醍醐天皇が隠岐島より還幸の途中、兵庫で病床に伏した際、住職がこの霊水を献上、服用したところ、 ご快癒されたと伝えられています。

薬仙寺の名前はこのエピソードに由来するようです。
それにしても、すごいパワーがある水です。

後醍醐天皇御薬水・薬師出現古跡涌水

神戸大空襲犠牲者慰霊碑・福原地区空襲被災者供養塔

第2次世界対戦で神戸は大空襲を受けました。
10数万の焼夷弾が落とされるという無差別攻撃により、約1万名の犠牲者が出ています。
戦争とはいえ、ひどい話です。
2度と同じことを起こしてはなりません。
ウクライナの戦争が早く終わり、平和になることを願います。

神戸大空襲犠牲者慰霊碑と福原地区空襲被災者供養塔

薬仙寺は古い歴史があり、その時々の政治にも関わるエピソードがある寺でした。