姫路香寺・親王塚

香寺にサイクリングしたときに親王塚を見つけました。

説明の看板には以下のように書かれています。

後醍醐天皇第三皇子 護良親王の御子陸良親王の塚と伝えられている。親王は観応の擾乱に赤松則祐に報じられて弥高山城(姫路市砥堀)から伊勢山(香寺町犬飼)まで進軍、 不幸にも病にかかり薨去されてこの地に葬られた。陸良親王(別名赤松宮)は正平の一統(1351年)の尊い犠牲である。塚により付近の地を親王塚垣内、略して親王垣内といったが、明治以降は新野と改められた。しかし、土地の人は今なおシンノーと読んでいる。

説明看板より

後醍醐天皇の孫に当たる陸良親王という方の塚のようです。
ウィキペディアで調べると次のようなことがわかりました。

※ 陸良(興良)親王
後醍醐天皇の孫にして、大塔宮護良親王の王子。
南朝から征夷大将軍に任じられ、大塔若宮・兵部卿若宮・宮将軍・赤松宮と号した。名は陸良とも。

※ 護良親王(もりよししんのう)
通称 大塔宮
後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒幕(元弘の乱)したときに功績をあげた。
建武の新政では征夷大将軍に任じられた。しかし父 後醍醐天皇と対立。
将軍を解任され、政治的地位も失脚、鎌倉に幽閉される。
中先代の乱の混乱の中で、足利直義の命を受けた淵辺義博によって殺害された。

※ 観応の擾乱 観応元年(1350)〜正平七年(1352) 
足利政権(室町幕府)の内紛によって行われた戦乱。
将軍足利尊氏の弟で幕府の実権を握る直義の派閥と、幕府執事高師直・将軍尊氏の派閥が戦った。最終的に師直、直義が死亡。生き残った尊氏が擾乱に勝利した。

※ 正平の一統
観応の擾乱のなか、尊氏は直義と南朝の分断を図るため、観応二年(1351)尊氏は南朝に降伏。北朝の崇光天皇や皇太子直仁親王は廃され、元号は北朝の観応二年が廃されて南朝の正平六年に統一された。

※ 元弘の乱 元徳三年(1331)〜元弘三年(1333)
鎌倉幕府打倒を掲げる後醍醐天皇の勢力と、幕府および北条高時を当主とする北条得宗家の勢力の間で行われた。
楠木正成の登場、足利尊氏の裏切りなど、この戦いの結果、鎌倉幕府は滅亡した。

※ 中先代の乱 建武二年(1335)
鎌倉幕府再興のため北条高時の息子時行が挙兵。一時的に鎌倉を支配した。