柿本人麻呂をお祀りする柿本神社が明石人丸山にあります。
柿本神社のホームページによると、明石城主であった小笠原忠政公が柿本人麻呂を大変崇敬され、元和六年(1620)にこの地にお祀りされました。
ご神徳は学問、安産、火災除け、夫婦和合。
※ 柿本人麻呂
飛鳥時代の歌人。三十六歌仙の一人で歌聖と呼ばれる。
万葉集、古今集などに400首以上の歌が載せられている。
※ 飛鳥時代
592年〜710年頃で、聖徳太子、遣隋使、大化の改新、壬申の乱と大きなトピックスが起こった。
万葉集、古今和歌集に明石を詠んだ人麻呂の歌があります。
灯火(ともしびの)の 明石大門(おほと)に入る日か
漕ぎ別れなむ 家のあたり見ず
「明石大門(明石海峡)を西に向かっていると大和の国が見えなくなっていく」
天離(あまざか)る 夷(ひな)の長通(ながち)ゆ
恋ひ来れば 明石の門より 大和島見ゆ
「西国からの帰りに明石の門までくるとふるさとの山が見えてきた」
亀の水の脇にある大鳥居をくぐり、人丸山を登っていきます。
境内にはいろいろな見所があります。
筆柿
説明看板より
人麿公が石見国(現島根県)より都に行かれる途次、持ち来たり植えられたと言い伝えられ婦人懐中すれば安産であると信仰されている。
八房梅
万ごこ路を神もよみして武士乃以の里はむすぶ八つ房の梅 秀一元禄の世に赤穂浪士間瀬久太夫が主君の仇討ちをいのって植えたと伝えられ一つの花に八つの実を結びます。
説明看板より
盲杖櫻
説明看板より
昔ひとりの盲人が九州からこの社に詣でて、ほのぼのとまことあかしの神ならばわれにも見せよ、人丸の塚と詠じるとたちどころに両眼がひらいて物を見ることができるようになった。
その人は光明を得たよろこびのあまり社前の庭に桜の杖を献じて去って行った。
やがてその杖に枝が生じ葉が茂って春になると花を咲かせたのでこれを盲杖桜と名づけて後の世に伝えたものである。
亀の碑
説明看板より
寛文四年(1664)10月、明石藩主松平信之は、和歌の隆盛を願って豪壮な人麻呂顕彰碑を建てた。台の亀及び碑文上部の双龍の彫刻は、中国風で品格もある。銘の撰文は、幕府の儒官であった大学頭林春斎によってつくられ、人麻呂の伝記が記されている。
本殿前の狛犬は明石市内にある石の狛犬の中で一番古いものだそうです。
句碑も並んでいました。
野崎秀夫氏の句碑には
「ともすれば 迷いがちなる敷島の
みちをあかしの 神に学ばむ」
と刻まれています。
梅の花が咲きはじめてました。
柿本人麻呂は明石に住んだことはないようですが、明石を題材にした詩を残しています。
姫路には人麻呂が播磨守を努めたときに住んでいたという人丸神社があります。
人麻呂の記録は少なく、わからないことが多いようですが、播磨と関わりがあったのは確かなようです。