深川・松尾芭蕉

松尾芭蕉は延宝8年(1680)日本橋から深川に引っ越し、小さな庵で住み始めました。
芭蕉が住んだ庵では門人から贈られた芭蕉の株が育ちました。それまでは「桃青」という俳号でしたが「芭蕉」に改めます。
旅先の大阪で亡くなる元禄7年(1694)まで深川に住みました。

芭蕉稲荷神社

芭蕉が亡くなったあと、芭蕉庵は松平遠江守の屋敷に取り込まれ、明治時代には消滅してしまったそうです。
ところが、大正6年(1917)台風による高波に襲われたあと、芭蕉が愛好したという石造のカエルが発見されます。ここが芭蕉庵の跡だということになり、芭蕉稲荷神社が建立されました。

神社の御神体は石造の蛙。
その蛙は現在芭蕉記念館に展示されています。
神社そのものはすごくコンパクトです。
芭蕉庵は四畳半の部屋と三畳の台所だけだったそうです。芭蕉記念館に芭蕉庵の模型が展示されています。

芭蕉稲荷神社

神社に「奥の細道旅立ち300年記念碑」がありました。平成元年(1989)がちょうど300年にあたります。

奥の細道旅立ち300年記念碑

元禄2年(1689)芭蕉はここから「おくのほそ道」の旅に出ました。
また、野ざらし紀行(貞享2年)、鹿島紀行(貞享4年)、笈の小文(貞享4年)、更科紀行(元禄元年)の旅もここ深川芭蕉庵から旅立ちました。

芭蕉の句もあります。
  さまざまなこと思い出す桜かな
この句は貞享5年(1688)、故郷の伊賀に帰ったときに詠んだ句です。
芭蕉は、もともと侍として伊賀藤堂家に使えていました。侍を捨て、故郷を出、江戸で俳諧師として名を挙げた人生を振り返ったのでしょうか。

さまざまなこと思い出す桜かな

芭蕉庵史跡展望庭園

芭蕉稲荷神社から少し歩くと芭蕉庵史跡展望庭園があります。
この芭蕉像は夕方5時になると回転するそうです。

芭蕉像

芭蕉像の周りには江戸時代の本のレリーフが展示されています。江戸時代の本は図が付いていて楽しそうです。それにしても、沢山の本が出版されたのですね。

芭蕉記念館

江東区芭蕉記念館では芭蕉関連のたくさんの資料が展示されています。昭和56年(1981)に開館しました。
庭は池を配した日本庭園で、芭蕉庵を模した芭蕉堂があります。
2階で企画展、特別展が行われ、3階が常設展示室になっています。

芭蕉は旅人というイメージがあります。館内に旅のルート図がありました。

貞享2年(1684)野ざらし紀行 奈良、大津、京都、名古屋などを訪問。
貞享4年(1687)鹿島紀行 鹿島を訪問。
貞享4年(1687)笈の小文 奈良、大阪、須磨、明石を訪問。
元禄元年(1688)更科紀行 「笈の小文」の帰りに木曽街道で江戸に戻る。
元禄2年(1689)おくのほそ道
1687年から1689年まで毎年旅をしています。全部、自分の足で歩くのですから、体力もあったんだと思います。
最後の旅は元禄7年(1694)10月12日、帰郷の途中、大阪で亡くなります。遺言で近江・義仲寺に埋葬されました。

訪問した日は「時雨忌俳句大会の40年」という企画展が開催されていました。時雨忌全国俳句大会は芭蕉記念館が主催している俳句大会です。

芭蕉の命日が時雨の季節だったことから、宝暦13年(1763)の芭蕉70回忌に義仲寺で俳諧法要「時雨会」が行われました。そこから、芭蕉の命日を「時雨忌」と呼ぶようになったそうです。

芭蕉が好んだという石造の蛙です。
大正6年(1917)台風による高波に襲われたあと、発見されました。

石造の蛙

芭蕉といえば、この衣装を思い浮かべてしまいます。

網代笠をかぶり、手甲をつけ、黒い道服を着て杖をついています。

奥の細道画巻
芭蕉翁臨終図

芭蕉の顔立ちについては享保20年(1735)の「水鶏塚」という本に「面長で、背丈は高くも低くもなく、頬高く、眉長く、まなざしはしっかりとし、鼻柱が通り、耳たぶ厚く、くちびる薄く、痩せた姿」と書かれてるそうです。

天保6年(1835)の像

芭蕉庵の模型です。芭蕉が句を考えています。

「古池や蛙飛びこむ水の音」の句が貞享3年(1686)に生まれました。カエルに対して「山吹」というのが伝統ですが、「古池や」としたところに、伝統にとらわれない芭蕉の革新性があるということです。
確かに、山吹より古池のほうが静けさがイメージできると思います。

たくさんの資料で芭蕉について勉強になりました。もう少し知識をつけてから、再訪したいと思いました。