姫路・廣峯神社

広峰山に登り、廣峯神社にお参りしました。

天満神社の横の道を登っていきます。ここが廣峯神社への裏参道の登り口ということらしいです。

廣峯神社がある頂上まで階段が続きます。

登り始めると、すぐに「文政八年」「八丁」と刻まれた石碑が現れます。
文政8年なので1825年に建てられたものです。姫路藩家老・河合寸翁が活躍していた時代です。

「休堂跡」とありましたが、木が倒れた残骸しかありません。看板に休堂の写真がありました。屋根とベンチのようなものがあります。登ってきた人がここで休んだのでしょう。

次は「牛岩」という大きな岩です。
「これより上は霊地につき牛馬の侵入は許されなかった」という看板があります。

ここまで牛や馬で登ってこれた、というのが驚きです。

「天地自然と人との結びの神」という結ノ神社ですが、崩れてしまっています。

結ノ神社


天安河(あまのやすかわ)で素戔嗚尊(すさのおのみこと)と天照大神(あまてらすおおかみ)が誓約(うけい)を行なったときに生まれた天津彦根命。
その天津彦根命の後裔である凡河内躬恒(おうしこうちのみつね)が醍醐天皇の時代(897〜930)に、廣峯神社の祭主となります。そして、凡河内躬恒の子孫が廣峯の性を賜りました。
廣峯氏は鎌倉時代には御家人になるなど活躍しました。

廣嶺家塁代神霊舎
天津彦根命の名も刻まれています

神社まであと少し。憩の広場に到着しました。ここには目薬の木がありました。

黒田官兵衛の祖父重隆が、備前福岡から広峰に流れてきて、この「目薬の木」で目薬を作り、巨万の富を得、小寺家の家老になっていったとされています。
姫路科学館サイエンストピックNo.479には
「本種の樹皮を砕いて、それを赤い絹の袋で包み、さらに大ハマグリの貝殻の容器に入れたものでした。それを煎じた汁で目を洗うことで、目のかゆみやひどい目やにに抜群の効果を発揮した。
5~6月頃の開花期の葉や小枝を採取して、粗く刻んで日干しにしたもの
煎じ薬の服用、煎じ液で洗顔(有効成分:カテキン)
・目の病気(眼の充血・視力低下・ただれ目・角膜炎・ものもらい・白内障)」
とあり、本当に目に効くようです。

ようやく神社に到着。立派な神門です。元禄時代に再建されたようです。

随神門をくぐると大きな拝殿が現れます。

拝殿は幅10間(約18m)、その奥の本殿は幅11間(約20m)あり、国内最大級の大きさです。

拝殿は寛永3年(1626)、本殿は文安元年(1444)に再建された建物で、どちらも国の重要文化財に指定されています。 

拝殿

廣峯神社は素戔嗚尊と五十猛命が主祭神。明治時代以前は牛頭天王だったようです。牛頭天王は素戔嗚命と同じと考えられています。吉備真備によって天平6年(734)に創建されて以来、素戔嗚命 / 牛頭天王がお祀りされてきました。

拝殿ではお祓いが行われていました。それにしても、大きな拝殿です。そして、本殿も大きい。

拝殿内部
本殿

拝殿の脇の方には享保2年(1717)作の神輿がありました。
車がついていて、八角形の形をしています。なんか、特徴がある形です。

神輿

本殿の裏では「陰陽九星詣り」ができます。
自分の生年月日に対して一白水星から九紫火星までの九星が決められています。そして本殿の壁には九星に対応した穴が空いていて、それぞれの穴の奥に守り神が鎮まっておられます。
自分の星の穴に願い事を小声で伝えると神様が願いを聞いてくれます

本殿裏
九星の穴

境内には多くの摂社、末社が建てられています。

拝殿裏には熊野権現社、山王権現社、庚申社、天神社、稲荷社、大鬼社、冠者殿社。
いずれも江戸時代に建てられました。

熊野権現社
山王権現社(左)、庚申社(右)
天神社(左)、稲荷社(右)
大鬼社
冠者殿社

境内の奥には薬師堂があります。

マップでは、さらに奥に進んでいくと黒田家の建物跡につながっているのですが、「道が狭く、急な山道」ということでギブアップしました。

拝殿側には軍殿八幡社、蛭子社、地養社、黒田官兵衛神社があります。軍殿八幡社、蛭子社、地養社は江戸時代の建造物です。

軍殿八幡社
地養社

地養社の祭神は蘇民将来です。蘇民将来には次の話があります。

牛頭天王(素戔嗚命)が蘇民将来と巨旦将来の兄弟に一夜の宿を乞うたときに、金持ちの巨旦将来は断ったが、貧しい蘇民将来は牛頭天王を粟飯でもてなした。
牛頭天王(素戔嗚命)は「悪疫が流行るが、腰に茅の輪をつければ逃れられる」と教えて去った。
まもなく疫病が流行った。
巨旦将来の一族は死に絶えたが、蘇民将来とその家族は無事だった。

蘇民将来は廣峯神社とつながりが深い神様です。

蛭子社
官兵衛神社

官兵衛神社は2019年に建てられました。御神体は黒田家ゆかりの「古木の根」。
江戸時代に発見された官兵衛の父職隆の墓に埋まっていたもので、福岡黒田藩が天明3年(1783)に墓を調べた際に掘り出し、職隆の位牌がある福岡市大長寺に安置されていました。
これは、「珪化木」という樹木の化石で、大長寺にあった5本のなかの1本が御神体として官兵衛神社に移されました。

白幣山

素戔嗚命が御鎮座された白幣山には荒神社、磐座、吉備社があります。
廣峯神社からは10分程度歩きます。

白幣山の山頂こそが、素戔嗚命(すさのおのみこと)が現れたところです。

「明治のかたりべ集」という昔話を集めた民話集に白幣山の素戔嗚命の話がありました。
要約すると次のような話です。

天平勝宝六年(754)、唐から帰った吉備真備は大伴古麻呂、憎鑑真、法進などと瀬戸内海を東へ東へ進み都に向っていました。
播磨の飾磨津にはいったところで、船上から北方の白幣山上に神光を見つけます。
不思議に思った一行は、光り輝く嶺に向かって進み、山頂に登った所、素戔嗚命(すさのおのみこと)の声が聞こえてきました。
「われは素盞鳴尊である。汝らよく聞け。この播磨の国はわれが治めているのだ。……」
「この国は稔り多き国である。いま、汝が持っている牛頭天王をこの地にわれと一緒に祭るがよい」
都に帰った真備は、このことを天皇に申し上げ、白幣山の頂に社殿を建立しました。

明治のかたりべ集より

吉備真備は唐に留学、18年も滞在して儒学、律令、暦学などを学びました。特に陰陽道は奥義を極め、日本陰陽道の祖と言われています。また、2度目の入唐では、鑑真和上を日本に連れて帰っています。上記のエピソードは鑑真和上と一緒なので、真備2回目の唐からの帰路での出来事です。このとき鑑真和尚も白幣山に登ったのでしょうか。

荒神社
吉備社

荒神社と吉備社のあいだに磐座があります。ここに、素戔嗚命が降り立ったのです。
廣峯神社の隠れパワースポットだということです。

磐座

古い歴史を持つ廣峯神社。色々なエピソードに彩られています。また、全国にある牛頭天王の総本山で、京都の八坂神社の牛頭天王は広峰から勧請されたともいわれています。
そういうな謎を秘めているところも、楽しく感じられました。