樋口一葉を訪ねて

明治時代の作家・樋口一葉の足跡を辿ってみました。

明治5年(1872) 0歳

5月 父・樋口則義、母・たきの次女として、内幸町の東京府構内長屋で生まれる。
本名 樋口奈津。
兄弟は長女ふじ、長男泉太郎、次男虎之助、三女くにの5人兄弟。

みずほ銀行本店脇の生誕地碑

則義とたきは甲州(山梨県)塩山近くの農家出身で、駆け落ちして江戸へ出てきた。同郷人の真下専之丞をたより、則義は蕃所調所の小使、たきは旗本稲葉家の乳母となった。
慶応3年(1867)、八丁掘の同心株を買って幕臣となる。
しかし、その3ヶ月後、大政奉還。さらに翌年(慶応4年/明治元年/1868年)幕府は崩壊。
則義は東京府の官吏に転進した。

奈津が生まれた年に、則義は士族に格上げされ、樋口家は士族となった。

明治7年(1874) 2歳

2月 麻布三河台町へ転居。
6月 妹くにが生まれる。

明治8年(1875) 3歳

7月 前年に結婚した姉ふじが離縁して樋口家に復籍。

明治9年(1876) 4歳

4月 本郷6丁目に転居。

一葉はこの屋敷を「桜木の宿」と呼んだ。ここには9歳まで5年間暮らした。
「桜木の宿」は樋口家が最も裕福に暮らせたときだった。

桜木の宿は赤門前にある法真寺の本堂の隣りにあった。

赤門前の法真寺参道
法真寺本堂

明治10年(1877) 5歳

3月 4歳で公立本郷学校に入学するが、幼少を理由に退学。
10月 私立吉川学校に編入入学。

明治12年(1879) 7歳

10月 姉ふじ再婚。

7つといふとしより草双紙といふものを好みて、手まり、やり羽子をなげうちてよみけるが、其中にも一と好みけるは英雄豪傑の伝、任侠義人の行為などのそぞろ身にしむように覚えて、凡て勇ましく花やかなるが嬉しかりき。
  日記「塵の中」

読書が好きで、英雄豪傑の伝記、任侠義人の物語が好きだった。
一番好きだったのは八犬伝で、7歳の時に3日で読んでしまったというエピソードがあります。

母は一葉が本を読むの嫌ったので、母に見つからないよう土蔵の薄暗い中で読んで近眼になってしまったといいます。

明治14年(1881) 9歳

4月 吉川学校退学。
6月 御徒町1丁目に転居。
7月 次兄・虎之助分籍。虎之助は薩摩焼絵付師となり、奇山と名乗った。

東京台東区の一葉記念館に一葉愛用の一輪ざしと紅入れが展示されていました。どちらも奇山・虎之助の作品でした。

一葉愛用の一輪ざしと紅入れ

10月 御徒町3丁目に転居
11月 市立青海学校に編入入学。

日記「塵の中」にこのころの思い出が記されています。

九つばかりの時よりは、我身の一生の世の常にて終わらむことなげかはしく、あはれ竹の一ふし出でしがなとぞあけくれに願ひける
  日記「塵の中」

「人より一歩でも抜け出したい」という競争心にあふれた上昇志向です。ひ弱な女性というイメージは全くありません。

明治16年(1883) 11歳

5月 青海学校小学中等科を卒業。
12月 青海学校小学高等科第四級を首席で修了。

第一級の卒業証書 第一級は5番目の成績だった

進学を望むが、母の反対で断念。

死ぬばかり悲しかりしかど学校は止めになりけり
  日記「塵の中」より

12月 長兄・泉太郎が家督を継ぐ。

明治17年(1884) 12歳

10月 下谷区西黒門町に転居。
神田神保町の松永宅で裁縫を習い始める。裁縫の稽古は15歳まで続く。

明治19年(1886) 14歳

8月 父・則義の知人、医師遠田澄庵の紹介で中島歌子の歌塾、萩の舎に入門する。

夏子さんが入門した当座は、下をこみがちで、隣に居た人にも話しもしませんでした。 みの子さんが「今度お弟子入りした樋口さんという人は継子みたいだね」と言いました。それは強度の近眼で、隣に座っている人の顔も一瞥した位ではハッキリ分らなかったからでしょう。上目でジロジロと人を見たというのは反対です。毛は薄毛でしたが、少しもちぢれてはいませんでした。
  伊東夏子「一葉の憶ひ出」

萩の舎
水戸藩士未亡人の中島歌子が小石川の安藤坂に開いていた歌塾。
門人には梨本宮妃、鍋島候夫人、前田侯夫人などの皇族、華族の婦女子が通った。しかし、そのなかに伊藤夏子と田中みの子という平民が2人いた。
樋口一葉、伊藤夏子、田中みの子の3人は「平民組」と自称し、仲が良かった。

伊東夏子
一葉とは同い年。萩の舎には11歳で入門したので一葉の4年先輩にあたる。
実家は鳥問屋・東国屋を営んでおり、裕福だった。一葉からの借金の申し入れにもたびたび応じた。 ヒ夏ちゃん、イ夏ちゃんと呼びあう一番の親友だった。

田中みの子
宮大工の未亡人で一葉より15歳年上。一葉に「物つつみの君(遠慮の君)」とあだ名をつけた。

萩の舎は文京区春日の安藤坂にありました。現在、萩の舎跡を示す案内板が建っています。

安藤坂の萩の舎跡

萩の舎跡にほど近い牛天神・北野神社の境内には中島歌子の歌碑があります。

牛天神・北野神社の中島歌子歌碑

歌碑は歌子の死後、明治42年(1909)に建てられたもので、次の詩が刻まれています。

雪のうちに 根ざしかためて 若竹の
 生出むとしの 光をぞ思ふ

中島歌子
夫である水戸藩士・林忠左衛門が天狗党に加わって獄死。その後、実家に戻り、和歌を学んで歌塾・萩の舎を開いた。

歌子自身、キャリアウーマンとも言える存在だったようです。

明治20年(1887) 15歳

1月 日記「身のふる衣 まきのいち」を書き始める。

2月 発歌会
発歌会にどういう服を着て出席するかが、萩の舎内で話題になっていた。
親は着物を用意してくれたが、一葉の話を聞いて「こんなみすぼらしい着物で出席するのは恥ずかしいこと」と母も言う。しかし、一葉は出席を決心。
塾生たちの着物は八重桜のように美しい。自分の服はみすぼらしいけど、古着であっても親が用意してくれたことを誇らしいと思う一葉。
写真撮影のあと、歌会が始まる。
題は「月前の柳」。

打ちなびく やなぎを見れば のどかなる おぼろ月夜も 風は有けり

この歌で入門わずか半年の一葉が最高点をとる。

おののきおののきよみ出しに、親君の祈りてやおはしけん、天つ神の恵みにや有りけん、まろふど万は六十人余りの内にて、第一の点恵ませ給ぬ
  日記「身のふる衣 まきのいち」

1位を取った喜びが伝わる文章です。本当にうれしかったのでしょう。
一葉は親友の伊藤夏子、明治初の女流作家・三宅花圃とともに「萩の舎の三才媛」と呼ばれるようになった。

6月 父・則義、警視庁を退職。
12月 長兄・泉太郎が亡くなる。

泉太郎が亡くなり、樋口家の家運が傾き始めます。

明治21年(1888) 16歳

2月 則義を後見人としてー葉が家督を相続し、戸主となる。
6月 三宅花圃が『藪の鶯』を出版する。

三宅花圃 (田辺龍子)
萩の舎の塾生で一葉より4歳年上。 父は元老院議官。『藪の鶯』は明治以降の女性による初めての近代小説とされる。兄の一周忌法要を行う費用を稼ぐため『藪の鶯』を執筆し、原稿料33円を得る。このことは後に一葉が小説家を志すきっかけになる。
一葉に文芸雑誌 「都の花」 を紹介して 『うもれ木』を書かせたり、「文学界」 同人と結びつけたりするなど活躍の場を与えた。
一葉とはライバルの関係でもある。一葉に対するコメントはちょっとキツイところがある。

9月 神田神保町に転居。則義、荷車運輸請負業組合のために出資。

明治22年(1889) 17歳

3月 神田淡路町に転居。則義の事業が破綻。
5月 則義、渋谷三郎に一葉との縁組を申し入れ、渋谷は承諾する。
7月 則義が死去。
9月 次兄・虎之助の借り家に同居。渋谷三郎との縁談が破談になる。

則義が亡くなり、戸主・一葉に母たきと妹くにを背負って生活を成り立たせるという大きな責任が生まれます。

明治23年(1890) 18歳

5月 萩の舎の内弟子として中島歌子宅に住む。
6月 中島家の女中が辞め、一葉が家事全般を行う。
9月 本郷菊坂70番地に家を借り、母たきと妹くにを住まわせる。一家の主な収入源は内職の洗濯、針仕事だった。

菊坂

井戸のポンプは大正時代に作られたもので、一葉は使わなかった。

一葉が使ったという井戸

ここから萩の舎までは歩いて20分の距離でした。高低差も少なく、通いやすかったと思います、

明治24年(1891) 19歳

4月 日記「若葉かげ」を書き始め、小説家への志を記す。

おもふことはざらむは腹ふくるるてふたとへも侍れば、おのが心にうれしともかなしともおもひあまりたるをもらすになん。さるはもとより世の人にみすべきものならねば、ふでに花なく文に艶なし。
  日記「若葉かげ」

4月 半井桃水を訪問。小説の指導を承諾してもらう。桃水に好意を持つようになる。
10月 鶴田たみ子が産んだ子の父親は桃水と聞いてショックを受ける。しかし、これは間違いだった。
11月 このころからペンネーム「一葉」を使い始める。

始めは金を得るために小説を書くと考えていたが、金が目的ではなく、1000年の後に名を残すことを望むようになります。

我れは錦衣を望むものならず。 高殿と願ふならず。千載にのこさん名、一時の為にえやは汚がす。
  日記「森のした艸」

明治25年(1892) 20歳

3月 雑誌「武蔵野」が発刊され、デビュー作「闇桜」が掲載された。
5月 菊坂69番地に転居。
6月 萩の舎に広まった噂がもとで、桃水に絶交を申し入れる。
7月 渋谷三郎が樋口家を訪問。復縁を求めるが、一葉は断る。
12月 三宅花圃を通じて星野天知が「文学界」創刊号に執筆を依頼する。

明治26年(1893) 21歳

4月 質屋通い(伊勢屋質店)が始まる。

伊勢屋質店

此月も伊せ屋がもとにはしらねば事たらず、小袖四つ、 羽織二つ、一風呂敷につつみて、母君と我と持ゆかんとす。

伊勢屋質店は家計のやりくりのために一葉が通った質店。 一葉が亡くなった時、伊勢屋の主人は香典を出してくれました。関係が深かったことがわかります。
伊勢屋質店の創業は万延元年(1860)、昭和57年に廃業しました。

7月 吉原のそばの龍泉寺町に転居する。

家賃が安く、知人に会わない小さな店が開ける貸家を探して、偶然見つけた場所だった。

龍泉町の樋口一葉旧居跡

8月 荒物屋を開業。店番は妹くに、一葉は仕入れを担当する。

開業資金を得るために借金。店は繁盛したが、客は子供が中心で駄菓子を売る店になってしまい儲けは少なかった。
店を開いたら儲かると本気で思ったのでしょうか。どうしてそういう気になったか不思議です。

店の仕入帳

生活はさらに困窮。金を借りないと知人の葬式の香典も出せない状況に陥る。

我こそは だるま大師に成にけれ とぶらはんにも あしなしにして
  日記「蓬生日記」

明治27年(1894) 22歳

1月 向かいに「野沢」という駄菓子屋がオープン。客を取られてしまう。
4月 萩の舎で中島歌子の助教をつとめ始める。
5月 店を閉め、本郷区丸山福山町4番地に転居する。

丸山福山町は水田が埋め立てられた新開地で、居酒屋が並んでいた。
この居酒屋は売春宿であった。一葉は居酒屋の女たちに頼まれ、客寄せの恋文を代筆した。

丸山福山の名前を残す丸山福山児童公園

となりに酒売る家あり。女子あまた居て、客のとぎをする事うたひめのごとく、遊びめに似たり。つねに文書きて給はれとて、わがもとにもて来る。ぬしはいつもかはりて、そのかずはかりがたし。
  日記「しのぶくさ」より

一葉は萩の舎では明治の最上流の女性たちと付き合い、家に戻れば最下流の女性と付き合った。
これが一葉の文学に深みを与えたと言われています。

12月 「文学界」に『大つごもり』を発表。
ここから傑作を次々生み出す「奇跡の14か月」が始ります。

明治28年(1895) 23歳

1月 「文学界」で『たけくらべ』の連載が始まる。
『たけくらべ』には龍泉寺で知った吉原、子供たちの生活が活かされました。

一葉記念館前のたけくらべ記念碑
一葉自筆のたけくらべ未定稿

9月 「文芸倶楽部」に『にごりえ』を発表。
12月 「文芸倶楽部」に『十三夜』を発表。

明治29年(1896) 24歳

1月 『たけくらべ』が完結。「国民の友」に『わかれ道』を発表。
2月 「新文壇」に『裏紫』を発表。
4月 「三人冗語」で『たけくらべ』が絶賛される。

三人冗語
文芸雑誌 「めさまし草」 に掲載された匿名座談形式の批評欄。 
メンバーは森鴎外、幸田露伴、斎藤緑雨の3人。
森鴎外は『たけくらべ』について「われはたとえ世の人に一葉崇拝のあざけりを受けんまでも、この人にまことの詩人という称を惜まざるなり」と絶賛した。

このころから喉の腫れ、発熱などの症状が出るようになった。

5月 「文芸倶楽部」に『われから』発表。博文館から『通俗書簡集』が発行される。

通俗書簡集
手紙の書き方の実用書で「年始の文」、「初雛祝の文」、「小学校の卒業を祝う文」、「開業祝いの文」など、さまざまなケースを想定した文例集。
おもしろいところでは、「猫の子をもらいにやる文」や「試験に落第した人に出す文」があり、一葉の創造力が発揮されています。
しかし、金を借りるときに出す文はありません。あえて書かなかった(書けなかった)のだと思います。
一葉生前に本の形で出版されたのは通俗書簡集だけでした。

7月 「文芸倶楽部」に『すずろごと』を発表。
8月 駿河台の山龍堂病院で診察。絶望的と診断される。
9月 森鴎外の依頼で当時最高の医師・青山胤通が往診。絶望と診断される。
萩の舎の歌会に出席。中島歌子、三宅花圃らと最後の顔合わせをする。

11月23日 死去
24日 通夜
25日 葬儀。築地本願寺樋口家墓所に葬られた。戒名は智相院釋妙葉信女。
萩の舎から参列したのは伊藤夏子と田中みの子の2人だけだった。
半井桃水は通夜、葬儀とも出席しなかった。

樋口一葉終焉の地

明治30年(1896)1月 「一葉全集」が発刊される。

一葉全集

明治31年(1898)2月 母たき死去。

明治32年(1899)11月 妹くに結婚。

明治37年(1904)4月 斎藤緑雨死去。

明治45年(1911)5月 馬場胡蝶編纂の「一葉全集」に一葉の日記が収録され、博文堂から出版される。

平成16年(2004)11月 樋口一葉の肖像が描かれた5000円札が発行される。
一葉が選ばれた理由は「女性の社会進出の進展に配意し、また、学校の教科書にも登場するなど、知名度の高い文化人の女性の中から採用したものです(財務省)」でした。

2024年には5000円札の肖像は津田梅子に代わる。

樋口一葉は24歳の若さで亡くなりましたが、すごくアクティブに人生を送りました。
竹の一ふしだけでも抜きん出たいという思いはかなえられたと思います。

以下の本を参考にさせていただきました。
「樋口一葉に聞く」 井上ひさし 文藝春秋
「こんにちは一葉さん」 森まゆみ 日本放送出版協会
「つっぱってしたたかに生きた樋口一葉」 槐 一男 教育史料出版会
「樋口一葉赤貧日記」 伊藤氏貴 中央公論新社
「樋口一葉の手紙教室」 森まゆみ 筑摩書房
「樋口一葉日記」 高橋和彦 アドレエー
「樋口一葉その文学と生涯」 姫路文学館