神戸市北区 丹生山田を巡る

神戸区北区の山田町を訪問しました。
丹生山田とも呼ばれる地区で、数々の史跡やエピソードが残っています。

箱木千年家

箱木千年家は南北朝時代の14世紀に建てられたという日本最古の古民家です。
その古さに驚きですが、板や柱を見ると、はるか昔は板や角材を作るだけでもたいへんだったことがわかります。

箱木千年家
荒々しい削り跡が残る柱

台鉋(かんな)がない時代、板や柱は釿(ちょうな)という工具で作っていましたが、きれいな平面を作るのはむつかしく、床が板張りだったり、柱を加工していたりするだけで豪華な家でした。

丹生神社鳥居と丹生神社宝物殿

丹上山頂にある丹上神社へと続く参道入り口に、古い鳥居が建っています。
丹上山は標高514メートル。平清盛は福原から丹生山へ月参りをしていたそうです。
丹上山の麓にある丹生神社宝物殿には「明要寺参詣曼荼羅図」や「当山景画大幅」などの宝物が納められています。

丹上神社鳥居
丹生神社宝物殿

福田寺

義経に道案内をした鷲尾三郎義久の菩提寺です。

鷲尾三郎は道に迷った義経を鵯越まで案内しました。
もともとは播磨の山中で猟師をしていた鷲尾家の三男でしたが、この功により、義経の「義」の字をもらい鷲尾三郎義久と名乗ります。
鷲尾三郎は一ノ谷の戦いの後も義経とともに戦いました。
文治5(1189)、衣川で藤原泰衡に襲われ、義経とともに討ち死にしたといいます。

県道83号線の南側に石灯籠があります。
この石灯籠と向こうに見える鷲尾山の間に鷲尾家の屋敷があったそうです。
秀吉の三木城攻めの際、三木方についた鷲尾家は所領を没収されてました。

福田寺
石灯籠

栗花落(つゆ)の井

栗花落の井という、奈良時代から伝わる伝説があります。

  • 奈良時代、丹生山田の住・山田左衛門尉真勝は都で淳仁天皇に仕えていた。
  • 真勝は右大臣藤原豊成の次女・白滝姫に恋し、姫を妻にして山田に帰った。
  • やがて姫は子を残し亡くなってしまう。
  • 真勝はその邸内に弁財天の社を建て、姫を祀った。
  • すると、毎年梅雨の頃、社の前の窪みに清水が湧き出し、いつもそこに栗の花びらが散り落ちた。
  • 後に、真勝は姓を「栗花落」と改め、梅雨にちなんで「つゆ」と読むことにした。

このお堂が白滝姫をお祀りする弁財天の社で、その下に栗花落の井があり、今でも清水が湧き出るそうです。

白滝姫をお祀りする弁財天社

六條八幡宮

丹生山田の総鎮守の六條八幡宮は古い歴史があります。
次のことが由緒として説明されていました。

  • 神功皇后が三韓征伐に向かう途中に、丹生都比売命の御神託により、丹生一族より丹土を授かるために営んだ行宮跡と伝えられている。
  • 平安時代の中期、長徳元年(995)に基燈法師が宝殿一宇(若宮八幡宮)を建立した。
  • 平安時代後期の保安4年(1123)に丹生山田庄の領主であった六條判官源為義が京の自邸に祀っていた佐女牛八幡大神を勧請合祀し、若宮八幡宮を再建した。
  • このことにより六條八幡宮と呼ばれるようになった。

10月の秋祭りでは流鏑馬が行われるそうです。

境内には立派な三重塔があります。
文正元年(1466)、この地区の有力者だった鷲尾綱貞によって建立されました。
もともとは圓融寺という寺の一部として建てられましたが、圓融寺は明治の廃仏毀釈令で廃寺となり、今では六條八幡宮に残されています。
神仏習合を示す貴重な文化財ということです。

信兵衛石

江戸幕府、10代将軍・徳川家治の時代に直訴を行った少年・村上新兵衛を記念する石です。

領主の土井大炊頭が領内を巡視した際に、この石の影から村上新兵衛が飛び出して、年貢を減らすよう直訴した。
日照りで作物が取れないため、年貢の軽減を代官に訴えていたが、認めてくれなかった。
新兵衛はその場で捕らえられ、土井大炊頭の宿所である有馬まで連れて行かれ、尋問を受けた。
新兵衛の筋が通った言い分を聞いた土井大炊頭は信兵衛を許し、年貢も軽減した。

村人の喜びの記念として残された石です。
石の影に隠れるにしてはちょっと小さい感じもしますが、村人が困っている状況を見た新兵衛は、ここから飛び出たのでしょう。勇気のある少年です。

信兵衛石

無動寺と若王子神社

無動寺には聖徳太子にまつわる伝説が残されています。
聖徳太子が物部守屋討伐祈願のため、鞍作鳥(くらつくりのとり)に命じて丈六の大日如来やその他仏像を作らせ、戦の後に七堂伽藍を建立するとともに八幡宮を勧請したというのです。

そのとき作られたとされる本尊の大日如来座像、脇侍の釈迦如来坐像、阿弥陀如来坐像、不動明王坐像、十一面観音立像、さらに若王子神社本殿が国の重要文化財に指定されています。

仏像を見せていただきましたが、高さが2.8メートルもある大日如来は迫力満点です。5体の仏像はもちろんですが、その両脇に立っておられる仏像も平安時代の作品です。こんな間近にすばらしい作品を見られたことに感動です。

無動寺

若王子神社は永仁5年(1297)に橘長綱によって建立され、応永5年(1408)に再建されたということがわかっています。鞘堂で覆われているため保存状態が良く、室町初期の建設当初の姿がよく残っているそうです。

若王子神社

丹生地区には他にも下谷上農村歌舞伎舞台や丹生神社山頂の丹生神社があり、狭い地域なのにたくさんのものが残されています。
この地域は京都から播磨、西国を結ぶ山陽道の裏街道として交通の要路であり、第一級の文化の通り道だったということです。
今の基準で考えて、裏六甲でなにもない所と見ていたら大間違いですね。