近松門左衛門 in 尼崎

近松門左衛門の墓と記念館が尼崎にあります。
近松門左衛門は大阪の人と思っていたので、尼崎にあるのは意外です。

今回、近松記念館と墓がある広済寺を訪問しました。

近松公園
近松記念館

近松記念館には数々の品が展示されています。
忍たま乱太郎の作者尼子騒兵衛さんは尼崎出身だったんですね。「近松さんへ」の色紙がありました。

近松記念館の展示
尼子騒兵衛さんの色紙

近松門左衛門の偉大さがわかる書きっぷりです。
近松記念館の展示や資料から近松門左衛門の年譜を書いてみました。

承応2年(1653)、本名は杉森信盛。越前藩士・杉森信義の次男として越前に生まれる。
幼名は次郎吉。

近松門左衛門は武士の子として生まれています。
武士としての矜持を生涯持っていたのではないかと考えられ、近松公園にある近松の像も武士の格好をしています。

近松門左衛門の像 武士の格好をしている

明暦元年(1655 近松3歳)、父の主君が吉江(現鯖江市)にお国入りしたため、杉森一家は吉江に移る。
寛文7年(1667 近松15歳)頃、父が浪人となり、京都へ移住する。

父が浪人になった理由はわかっていないようです。

寛文11年(1671 近松19歳)兄、智義と弟、伊恒は宇陀松山藩の織田家に仕える。近松は上流貴族の公家侍となる。

上流貴族の文化に触れたことが後の劇作家としての才能を開花させたようです。

延宝3年(1675 近松23歳)宇治嘉太夫、宇治座を創立。
延宝5年(1677 近松25歳)「殿上のうはなり討」を宇治座で上演。作者として初めて関係したと推定される。

兄が武士として生きるなか、芸能の道に入るとは。よほど好きだったのでしょうね。

天和3年(1683 近松31歳)「世継曽我」を宇治座で上演。作者として世に初めて認められる作品。
貞享元年(1684 近松32歳)竹本義太夫、竹本座を創立。
貞享2年(1685 近松33歳)「出世景清」竹本座で上演
貞享3年(1686 近松34歳)「三世相」竹本座で上演。初めて作者として署名する。
貞享4年(1687 近松35歳)父・信義死去。
元禄12年(1699 近松47歳)「けいせい仏の原」上演。歌舞伎作者としても活躍する。
元禄16年(1703 近松51歳)「曽根崎心中」竹本座で上演。

曽根崎心中はお初天神で本当にあった心中事件を題材に作られました。空前の大ヒットを記録。
経営危機に陥っていた竹本座が、この大ヒットによって経営が立ち直ったといいます。
お初天神こと露天神社は恋人の聖地になっています。

心中事件があったお初天神
徳兵衛とお初

宝永2年(1705 近松53歳)竹本座専属作家となる。
宝永3年(1706 近松54歳)京都から大阪へ引っ越す。
正徳元年(1711 近松59歳)「冥途の飛脚」上演。

近松は大阪で作家生活をしていたと思っていたのですが、ずっと京都にいて、54歳で初めて大阪に来たのですね。
竹本座の専属作家という地位を得て、大阪でがんばろうと思ったのでしょうか。

近松記念館にあった文机

正徳4年(1714 近松62歳)竹本座に作者部屋ができる。日昌上人が広済寺を再興。
正徳5年(1715 近松63歳)「国姓爺合戦」上演。1️7ヶ月のロングランを記録する。
享保元年(1716 近松64歳)母死去。尼崎広済寺で法要。

近松は広済寺の和尚・日昌上人と仲が良かったといわれています。
大阪に移った近松は、大阪の船問屋・尼崎屋吉右衛門宅で船頭から話を聞いて執筆したと伝えられています。この船問屋が広済寺を再興した日昌上人の実家だそうです。
広済寺の復興には近松も本願人となり、広済寺をたびたび訪れたようです。

広済寺

寺の本堂裏には近松部屋があったとの言い伝えがあります。
ただし、当時の執筆活動は一人で行うものではなく、座本や太夫等を交えて相談しながら進める共同作業だったため、広済寺に近松部屋があったのは言い伝えに過ぎないという意見もあります。

「広済寺開山講中列名縁起」に近松門左衛門の署名があります。
署名の位置は先頭でも、最後でもなく、字の大きさも他の人と同じ。著名な作家ということをひけらかすでもなく、いたって普通です。

広済寺開山講中列名縁起 近松門左衛門の著名がある

享保5年(1720 近松68歳)「心中天の網島」上演。
享保6年(1721 近松69歳)「女殺油地獄」上演。
享保9年(1724 近松72歳)死去。尼崎広済寺に葬られる。

享保12年(1727)に発刊された浄瑠璃の歴史書「今昔操年代記」には次のように書かれています。

近松門左衛門は作者の氏神なり。
今作者といはるる人々、みな近松のいきかたを手本として書きつづるものなり

近松門左衛門の墓

日本のシェークスピアとも称される近松門左衛門ですが、当時から偉大さを認められていたのですね。