河野鉄兜生家

河野鉄兜(文政八年/1826〜慶応三年/1867)は江戸末期の漢詩人、学者。姫路の網干出身です。

鉄兜は文政八年(1825)、揖保郡網干余子浜垣内のこの地に生まれる。
名は維羆。字は夢吉。通称俊蔵。本性は越智氏。
鉄兜という合は家に伝わる古い鉄兜にちなんでつけたという。
また秀野などとも号した。
16歳の時、吉田鶴仙に学び、また仁寿山校にも入学した。
詩は京都の梁川星巌に学んだ。
一時医師を開業したが、嘉永四年(1851)林田藩主建部政和に招かれ、藩校敬業館の教授を勤めた。
安政二年(1855)に林田に移住し、秀野草堂で門下生を指導し各地の名家の来訪を受けた。
吉野の詠は芳山三絶として名高い。

平成六年1月 姫路市教育委員会の説明板より

鉄兜の生家の碑とその周りが河野鉄兜記念公園になっています。

石碑に網干と言う題の七言絶句が刻まれています。

吾郷山水本超凡
淡蕩煙波開鏡函
十里垂楊風不断
家々門外有春颿

庭がきれいでした。

河野鉄兜の漢詩としては「芳野懐古」が有名です。

※ 芳野懐古

山禽叫断夜寥寥
無限春風恨未鎖
露臥延元陵下月
満身花影夢南朝

山禽叫び、断へて夜は寥寥たり
無限の春風、恨み未だ鎖(き)えず
露臥す延元陵下の月に
満身の花影南朝を夢む

山の鳥の鳴き声も絶えて夜はひっそりとしてもの寂しく、
尽きることもなく吹く春風に怨みは今だ消えることがない。
月の下で延元陵に伏せ、
満身の桜に南朝の夢みる。


※ 芳山三絶(よしのさんぜつ)
吉野山の桜と南朝への感傷を歌った漢詩のうち、代表的な河野鉄兜、梁川星巌、藤井竹外の七言絶句。