仁寿山黌

仁寿山黌は姫路酒井家家老・河合道臣(寸翁)が建てた私塾です。

文政四年(1821)藩政改革の功績により藩主酒井忠実から幡下山(はたしたやま)を与えられ、仁寿山黌の建設を開始し、翌文政五年(1822)に仁寿山黌は完成しています。

仁寿山という名は、前藩主・酒井忠道が論語の「子曰、知者楽水、仁者楽山、知者動、仁者静、知者楽、仁者寿」から名付けられました。
もともとは幡下山(はたしたやま)と呼ばれていました。
幡下山には神功皇后が西へ向かうとき八色の幡がなびいたという伝説がありました。
仁寿山の隣の麻生山には新羅征伐に行く神功皇后が麻生山山頂から3本の矢を射ったという伝説があります。

仁寿山黌の出身者です。

  • 松岡操 柳田国男の父
  • 亀山雲平 姫路藩士。幕末から明治にかけて、儒学者・神官・教育者として活躍した。
  • 河野鉄兜 姫路市網干出身。林田藩敬業館の教授となった。漢詩人。
  • 秋元安民 姫路藩士。勤王志士。大型帆船 速鳥丸を建造した。
  • 河合惣兵衛 姫路藩士。勤王志士のリーダ。甲子の獄で自殺刑に処せられた。
  • 河合屏山 姫路藩士。勤王志士。姫路開城後の藩政をリードした。河合寸翁の養子。

仁寿山黌の教授たち

頼山陽 儒学者。日本外史の作者。仁寿山黌に4回来た。
菅野松鵜 高砂申義堂の教授も務めた。
猪飼敬所 儒学者
森田節斎 勤王派の儒学者

仁寿山黌では儒学、国学、漢学、医学などが教えられました。
学生数は100〜150名。武士の子だけではなく、身分に関係なく誰でも参加できました。
頼山陽の影響などで姫路の勤王志士が多く生まれています。

仁寿山黌の碑
当時の復元図

河合寸翁が天保十二年(1841)に死ぬと、
その翌年に医学寮だけを残し仁寿山黌は廃校となり、学生らは藩校
好古堂に吸収されました。
医学寮は嘉永四年(1851)に廃止となりました。

仁寿山黌の跡は土塀と井戸しか残っていません

土塀後
井戸跡

姫路藩は藩主酒井忠績が江戸最後の大老になり、甲子の獄が起こるなど、佐幕派の藩でした。
しかし、大政奉還・鳥羽・伏見の戦い、姫路城開城、明治維新、廃藩置県という世の変化に対応し、なんとか姫路城は残ります。
そこには、河合寸翁が育てた若者たちが活躍したのだと思われます。

河合寸翁は財政改革で姫路藩を救い、教育によって姫路に宝物を残してくれたとも言えると思います。