源頼政 長明寺

長明寺

長明寺は白雉2年(651)、法道仙人の開基とされている古いお寺です。
ここに源頼政公の墓があります。
鵺退治や平清盛に対し挙兵したことで知られている頼政公。長明寺がある西脇市高松町は頼政公の所領だったため、頼政公の遺言により墓が築かれたと伝えられています。

寛政10年建造の仁王門
本堂

本堂から少し離れたところに頼政公の鵺退治像がありました。

平安末期の仁平3年。丑の刻頃になると東三条の森の方から黒雲が湧き上がり、御所の上を覆いつくしました。しかも、黒雲から怪しげな鳥の声がする。鵺でした。
近衞天皇は弓の名手源頼政に妖怪退治を命じます。

弓を引絞って構える頼政公

頭はサル、胴はタヌキ、尾はヘビ、手足はトラという怪物。口を大きくあけて襲いかかろうとしています。

本堂の絵馬に鵺退治が描かれています。

明治時代に奉納された鵺退治絵馬

頼政公は源氏です。保元の乱(1156年)、平治の乱(1160年)ともに勝者の側につき、平清盛が政権を握った後も政界に留まり源氏の長老の位置をしめました。
その頼政公が変わります。

治承元年(1177)平家打倒の陰謀事件(鹿ヶ谷の陰謀)が起こる。
治承2年(1178)頼政公、74歳で従三位に昇進。
治承3年(1179)平清盛、後白河法皇を幽閉する(治承3年の政変)。
治承4年(1180)安徳天皇が即位。頼政公、以仁王とともに平氏打倒の令旨を発する。
 5月26日 頼政公、平家相手に奮戦するも宇治平等院の戦いで敗れて自刃。

頼政公供養塔、左奥は菖蒲御前供養塔

以仁王の挙兵は失敗に終わり、頼政公も自刃しました。しかし、二人が発した令旨は、それを奉じた源頼朝、源義仲らが挙兵による治承・寿永の乱を引き起こし、最後は平家滅亡という大きく歴史をうごかすきっかけとなりました。

頼政公はすぐれた武将でしたが、和歌の才能がありました。長明寺にも多くの句碑があります。

境内にあった句碑です。
 深山木の その梢とも 見えざりし
 桜は花に あらはれにけり

頼政公墓所近くにあった句碑には頼政公の辞世の句が刻まれていました。
 埋木の 花咲く事も なかりしに
 身のなる果は あはれなりける

頼政池のほとりにあった句碑
 花咲かば 告げよといひし 山守の
 来る音すなり 馬に鞍おけ 

句の意味は、花が咲いたら教えてくれと頼んでおいた山守が来そうだ。花見に行くから馬に鞍を置こう、という意味だと思います。

頼政池は姫路藩主・池田輝政が築いた池です。頼政公の墓はここにあったのですが、池が作られたときに移されたと伝えられています。

頼政池

道は四国八十八か所めぐりのハイキングコースに続きます。

摩崖仏などを見ながら高松谷川沿いを歩いていきます。

怪物鵺を退治し、以仁王とともに挙兵した頼政公。
武将であった頼政公ですが、句をみると戦う人ではなく、平和な人だったような気がしました。