石山寺

石山寺におまいりしました。
天平19年(747)、良弁僧正によって開基された寺です。

平安時代、蜻蛉日記の作者である藤原道綱母や更級日記の作者・菅原孝標女が石山寺詣でをしたり、紫式部がここ石山寺で源氏物語を書き始めたという伝承があり、文学と深い関係があります。
現在、京都から石山寺へ行く場合、JRで石山駅まで行き、そこからバスで行くか、京阪石山寺で降りてから歩くなどが考えられます。ためしに京都と石山寺の位置関係をグーグルマップで見ると距離は約20km。案外近い
石山寺は滋賀県なのでもっと遠いと思っていました。
平安時代の人にとって、京都を出て逢坂山を越えると大きな琵琶湖があって、瀬田川を下っていくという、割と気軽に行ける楽しい旅行だったのではないかと思います。

石山寺の入り口東大門は源頼朝の寄進で建設されたものです。
藤原道綱母が石山寺に来たときはありませんでした。
仁王像は運慶と息子の湛慶の作と伝えられています。

東大門

東大門から中に入っていくとくぐり岩と比良明神影向石があります。
くぐり岩は胎内くぐりの穴が開いているもので、この穴をくぐると願いが叶うというパワースポットです。

くぐり岩
比良明神影向石

石山寺縁起絵巻には影向石について次ストーリーが物語られています。

東大寺の僧良弁僧正(689~773)は、聖武天皇に東大寺の大仏建立に必要な黄金の調達を命じられ、金峯山に籠って金剛蔵王の夢告を受けてこの石山の地を訪れた際、岩の上で釣りをしていた老人から、お告げの地がまさにこの地であったことを知らされます。この老人こそが近江の地主であった比良明神で、比良明神が座っていた石は「比良明神影向石」として今も大切に守られています。

説明板より

石山寺にはたくさんのお堂があります。
毘沙門堂は江戸時代、御影堂は室町時代の建立です。

毘沙門堂
御影堂

石山寺の名前の由来になった硅灰石(けいかいせき)です。大きくて、ごつごつした岩肌が珍しい景色となっており、国の天然記念物に指定されています。
硅灰石の上には国宝・多宝塔が見えます。
石山寺では本堂も硅灰石の上に建てられているそうです。

石山寺硅灰石

続いて本堂(国宝)へ向かいます。

「源氏の間」に紫式部がいました。紫式部はこの部屋に参籠し、源氏物語を書き始めたと伝えられています。
この部屋は天皇や貴族のような身分の高い人々が使用する部屋で、皇后の女房である紫式部がこの部屋を使うことができたのは特別待遇だったとのことです。
「源氏の間」の呼び名は最近始まったわけではなく、鎌倉時代からそう呼ばれていたそうです。
紫式部は筆をとって、さあ書き始めようとしています。

源氏の間の紫式部

本堂にはたくさんの風鈴が吊り下げられ、涼しげな音を立てていました。

本堂を出て石段を登っていくと国宝・多宝塔です。多宝塔は源頼朝の寄進により建てられました。日本最古の多宝塔で非常にきれいな、優美な形をしています。

多宝塔

多宝塔の横に「めかくし石」というのがありました。
平安時代に建てられた宝塔で、めかくししてこの石を完全に抱くと願いが叶うとされています。
いつからこういう伝承ができたのでしょうか。平安時代にもあったとしたら、藤原道綱母は絶対に試してみたと思います。

めかくし石

平成20年(2008)に東レ株式会社の寄進によって建てられた堂宇です。
JR石山駅の周りは、東レ関係の工場、事務所が立ち並んでいるので、すごいなと思っていましたが、東レは石山が発祥の地でした。

光堂

光堂から下っていく途中に紫式部像があります。こちらの紫式部は紙から目を離し、考え事をしている感じです。
服装は十二単? 暑そうな服を着ておられました。

紫式部像

石山寺に近い幻住庵に一時期暮らしていた松尾芭蕉は石山寺に関する句をいくつか詠んでいます。
この句碑には
 石山の 石にたばしる 霰かな
と刻まれています。
石山寺の大きな硅灰石にあられが激しく降って、飛び跳ねるところを描写しています。

芭蕉句碑

石山寺は奇岩硅灰石が珍しいと思います。それを利用して建てられた堂宇が美しい姿をしていました。都から近くて石山詣でが流行ったというのもわかる気がしました。